む》けさ。傍若無人だ。」

       九

「膝枕をしたもんです。その野分《のわき》に、衣紋《えもん》が崩れて、褄《つま》が乱れた。旦那の頭は下掻《したがい》の褄を裂いた体《てい》に、紅入友染《べにいりゆうぜん》の、膝の長襦袢《ながじゅばん》にのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。
 大蛇のような鼾《いびき》を掻《か》く。……妾《めかけ》はいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。
 江戸児《えどっこ》だと、見たが可い! 野郎がそんな不状《ぶざま》をすると、それが情人《いろ》なら簪《かんざし》でも刺殺す……金子《かね》で売った身体《からだ》だったら、思切って、衝《つっ》と立って、袖を払って帰るんだ。
 処を、どうです。それなりに身を任せて、静《じっ》として、しかも入身《いれみ》に娜々《なよなよ》としているじゃないか。
 掴寄《つかみよ》せられた帯も弛《ゆる》んで、結び目のずるりと下った、扱帯《しごき》の浅葱《あさぎ》は冷たそうに、提灯の明《あかり》を引いて、寂しく婦《おんな》の姿を庇《かば》う。それがせめてもの思遣《おもいや》りに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、青光《あおびかり》のする腸《はらわた》のように見えて、あわれに無慚《むざん》な光景《ようす》だっけ。」
「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜか腑《ふ》に落ちぬらしく聞えたのである。
「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を緊《し》めた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯《しごき》が鎌首を擡《もた》げりゃ可《よ》かったのにさ。」
「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、葵《あおい》の上などという執着《しゅうぢゃく》の深いものは、立方《たちかた》禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある婦《おんな》ですが……金子《かね》の力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」
「気の毒だね。」
「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧《ざんまい》、我儘《わがまま》を、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」
「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。身体《からだ》を売って栄耀《えよう》栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。」
「ですがね、」
 と男衆は、雪駄《せった》ちゃらちゃら、で、日南《ひなた》の横顔、小首を捻《ひね》って、
「我儘も品《しな》によりまさ。金剛石《ダイヤモンド》や黄金鎖《きんぐさり》なら妾《めかけ》の身じゃ、我儘という申立てにもなりませんがね。
 自動車のプウプウも血の道に触《さわ》るか何かで、ある時なんざ、奴《やっこ》の日傘で、青葉時に、それ女大名の信長公でさ。鳴かずんば鳴かして見しょう、日中《ひなか》に時鳥《ほととぎす》を聞くんだ、という触込《ふれこ》みで、天王寺へ練込みましたさ、貴方。
 幇間《たいこもち》が先へ廻って、あの五重の塔の天辺《てっぺん》へ上って、わなわな震えながら雲雀笛《ひばりぶえ》をピイ、はどうです。
 そんな我儘より、もっと偉いのは、しかもその日だって云うんですがね。
 御堂《みどう》横から蓮《はす》の池へ廻る広場《ひろっぱ》、大銀杏《おおいちょう》の根方に筵《むしろ》を敷いて、すととん、すととん、と太鼓を敲《たた》いて、猿を踊らしていた小僧を、御寮人お珊の方、扇子を半開《はんびらき》か何かで、こう反身で見ると、(可愛らしいぼんちやな。)で、俳優《やくしゃ》の誰とかに肖《に》てるッて御意の上……(私は人の妾やよって、えらい相違もないやろけれど、畜生に世話になるより、ちっとは優《まし》や。旦那に頼んで出世させて上げる、来なはれ、)と直ぐに貴方。
 その場から連れて戻って、否応《いやおう》なしに、旦《だん》を説付《ときつ》けて、たちまち大店《おおだな》の手代分。大道稼ぎの猿廻しを、縞《しま》もの揃いにきちんと取立てたなんぞはいかがで。私は膝を突《つッ》つく腕に、ちっとは実があると思うんですが。」
 初阪はこれを聞くと、様子が違って、
「さあ、事だよ! すると、昨夜《ゆうべ》のはその猿廻しだ。」

       十

「いや、黒服の狂犬《やまいぬ》は、まだ妾《めかけ》の膝枕で、ふんぞり返って高鼾《たかいびき》。それさえ見てはいられないのに、……その手代に違いない。……当時の久松といったのが、前垂《まえだれ》がけで、何か急用と見えて、逢いに来てからの狼藉《ろうぜき》が、まったく目に余ったんだ。
 悪口《あっこう》吐《つ》くのに、(猿曳《さるひき》め
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