う疼痛《いたみ》はないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が傍《そば》に居たものを。美津《みい》さんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。
 そやけど、美津さん、怨《うら》みにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲《ちょうちゃく》されて、熟《じっ》と堪《こら》えていやはったも、辛抱しとげて、貴女《あんた》と一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中《しんじゅう》の極印《ごくいん》打ったも同じ事、喜んだかて可《い》いのどす。」
 お美津は堪《こら》えず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色《ときいろ》衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に搦《から》む、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の靨《えくぼ》に、前髪の艶しとしとと。
 お珊は眦《まなじり》を多一に返して、
「な、多一さんもそうだすやろな。」
「はい!」と聞返すようにする。
「丸官はんに、柿の核《たね》吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇《らう》のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身《しにみ》になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」
「…………」
「なあ、貴方、」
「…………」
「ええ、多一さん、新枕《にいまくら》の初言葉《ういことば》と、私もここでちゃんと聞く。……女子《おなご》は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」
 と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向《うつむ》いて見なかった。
「……ものやさかい、美津さんの後の手券《てがた》に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」
「ええ、」
「あの、美津さんへの心中だてかえ。」
 多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫《さしぬき》に、刀なき腰は寂しいものであった。
「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」
 お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに支《つ》いていた、簪《かんざし》の橘《たちばな》薫りもする。
「おお……嬉し……」
 と胸を張って、思わず、つい云う。声の綾《あや》に、我を忘れて、道成寺の一条《ひとくだり》の真紅の糸が、鮮麗《あざやか》に織込まれた。
 それは禁制の錦《にしき》で
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