《つ》いて、直ぐ目の下を、前髪に手庇《てびさし》して覗込《のぞきこ》む。
 この度は、場処を替えようとするらしい。
 斜《ななめ》に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹《さお》で操るがごとくになって、夥多《あまた》の可《いい》心持に乾いた亀の子を、カラカラと載《の》せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟《じっ》として嚔《くしゃみ》したもの一つない。
 板の一方は細いのである。
 そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込《かかえこ》めそうに見えた。
 いや、困った事は、重量《おもみ》に圧《お》されて、板が引傾《ひっかたむ》いたために、だふん、と潜る。
「ほい、しまった。いや、串戯《じょうだん》じゃない。しっかり頼むぜ。」
 と、男衆は欄干をトントン叩く。
 あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛《かか》った。と思うと、ずぼりと出る。
「蛙《かわず》だと青柳硯《あおやぎすずり》と云うんです。」
「まったくさ。」

       十七

 けれども、その時もし遂げなかった。
「ああ、惜《おし》い。」
 男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。
「執念深いもんですね。」
「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」
 と言う間もなかった。
 この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺《ゆら》ぐばかり力が入って、その手を扁平《ひらた》く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。
「ははあ、考えた。」
「あいつを力に取って伸上《のしあが》るんです、や、や、どッこい。やれ情《なさけ》ない。」
 ざぶりと他愛《たわい》なく、またもや沈む。
 男衆が時計を視《み》た。
「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々《そろそろ》帰りましょう。」
「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」
「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛《かか》るかも知れませんから。」
「妙に残惜《のこりおし》いようだよ。」
 男衆は、汀《みぎわ》の婦《おんな》にちょいと目を遣って、密《そっ》と片頬笑《かたほおえみ》して声を潜《ひそ》めた。
「串戯《じょうだん》じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄《うっす》りと美
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