栃の実
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝六《あさむ》つ
|:|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一挺|掛《かか》った
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]
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朝六《あさむ》つの橋を、その明方《あけがた》に渡った――この橋のある処《ところ》は、いま麻生津《あそうづ》という里である。それから三里ばかりで武生《たけふ》に着いた。みちみち可懐《なつかし》い白山《はくさん》にわかれ、日野《ひの》ヶ峰《みね》に迎えられ、やがて、越前の御嶽《みたけ》の山懐《やまふところ》に抱《だ》かれた事はいうまでもなかろう。――武生は昔の府中《ふちゅう》である。
その年は八月中旬、近江《おうみ》、越前の国境《くにざかい》に凄《すさま》じい山嘯《やまつなみ》の洪水《でみず》があって、いつも敦賀《つるが》――其処《そこ》から汽車が通じていた――へ行《ゆ》く順路の、春日野峠《かすがのとうげ》を越えて、大良《たいら》、大日枝《おおひだ》、山岨《やまそば》を断崕《きりぎし》の海に沿う新道《しんみち》は、崖くずれのために、全く道の塞《ふさが》った事は、もう金沢を立つ時から分っていた。
前夜、福井に一泊して、その朝六《あさむ》つ橋《ばし》、麻生津を、まだ山かつらに月影を結ぶ頃、霧の中を俥《くるま》で過ぎて、九時頃武生に着いたのであった。――誰もいう……此処《ここ》は水の美しい、女のきれいな処である。柳屋《やなぎや》の柳の陰に、門《かど》走《はし》る谿河《たにがわ》の流《ながれ》に立つ姿は、まだ朝霧をそのままの萩《はぎ》にも女郎花《おみなえし》にも較べらるる。が、それどころではない。前途《ゆくて》のきづかわしさは、俥《くるま》もこの宿《しゅく》で留《と》まって、あとの山路は、その、いずれに向っても、もはや通じないと言うのである。
茶店の縁《えん》に腰を掛けて、渋茶を飲みながら評議をした。……春日野の新道《しんみち》一条《ひとすじ》、勿論《もちろん》不可《いけな》い。湯《ゆ》の尾《お》峠にかかる山越え、それも覚束《おぼつか》ない。ただ道は最も奥で、山は就中《なかんずく》深いが、栃木《とちのき》峠から中《なか》の河内《かわち》は越せそうである。それには一週間ばかり以来《このかた》、郵便物が通ずると言うのを聞くさえ、雁《かり》の初《はつ》だよりで、古《むかし》の名将、また英雄が、涙に、誉《ほまれ》に、屍《かばね》を埋《うず》め、名を残した、あの、山また山、また山の山路を、重《かさな》る峠を、一羽《いちわ》でとぶか、と袖《そで》をしめ、襟《えり》を合わせた。山霊《さんれい》に対して、小さな身体《からだ》は、既に茶店の屋根を覗《のぞ》く、御嶽《みたけ》の顋《あご》に呑まれていたのであった。
「気をつけておいでなせえましよ。」……畷《なわて》は荒れて、洪水《でみず》に松の並木も倒れた。ただ畔《あぜ》のような街道《かいどう》端《ばた》まで、福井の車夫は、笠を手にして見送りつつ、われさえ指す方《かた》を知らぬ状《さま》ながら、式《かた》ばかり日にやけた黒い手を挙げて、白雲《しらくも》の前途《ゆくて》を指した。
秋のはじめの、空は晴れつつ、熱い雲のみ往来して、田に立つ人の影もない。稲も、畠《はた》も、夥多《おびただ》しい洪水のあとである。
道を切って、街道を横に瀬をつくる、流《ながれ》に迷って、根こそぎ倒れた並木の松を、丸木橋とよりは筏《いかだ》に蹈《ふ》んで、心細さに見返ると、車夫《くるまや》はなお手廂《てびさし》して立っていた。
翼をいためた燕《つばめ》の、ひとり地《ち》ずれに辿《たど》るのを、あわれがって、去りあえず見送っていたのであろう。
たださえ行悩《ゆきなや》むのに、秋暑しという言葉は、残暑の酷《きび》しさより身にこたえる。また汗の目に、野山の赤いまで暑かった。洪水《でみず》には荒れても、稲葉《いなば》の色、青菜の影ばかりはあろうと思うのに、あの勝山《かつやま》とは、まるで方角が違うものを、右も左も、泥の乾いた煙草畑《たばこばたけ》で、喘《あえ》ぐ息さえ舌に辛《から》い。
祖母が縫ってくれた鞄代用《かばんがわり》の更紗《さらさ》の袋を、斜《はす》っかいに掛けたばかり、身は軽いが、そのかわり洋傘《こうもり》の日影も持たぬ。
紅葉《こうよう》先生は、その洋傘が好きでなかった。遮《さえぎ》らなければならない日射《ひざし》は、扇子《おうぎ》を翳《かざ》されたものである。従って、一門の誰《たれ》かれが、大概《たいがい》洋傘を意に介しない。連れて不忍《しのば
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