ず》の蓮見《はすみ》から、入谷《いりや》の朝顔などというみぎりは、一杯のんだ片頬《かたほお》の日影に、揃って扇子《おうぎ》をかざしたのである。せずともいい真似をして。……勿論、蚊《か》を、いや、蚊帳《かや》を曲《ころ》して飲むほどのものが、歩行《ある》くに日よけをするわけはない。蚊帳の方は、まだしかし人ぎきも憚《はばか》るが、洋傘の方は大威張《おおいばり》で持たずに済んだ。
 神楽坂《かぐらざか》辺《へん》をのすのには、なるほど(なし)で以《もっ》て事は済むのだけれども、この道中には困却した。あまつさえ……その年は何処《どこ》も陽気が悪かったので、私は腹を痛めていた。祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔《やわらか》い粥《かゆ》とも誂《あつら》えかねて、朝立った福井の旅籠《はたご》で、むれ際《ぎわ》の飯を少しばかり。しくしく下腹の痛む処《ところ》へ、洪水《でみず》のあとの乾旱《からでり》は真《しん》にこたえた。鳥打帽《とりうちぼう》の皺《しな》びた上へ手拭《てぬぐい》の頬かむりぐらいでは追着《おッつ》かない、早や十月の声を聞いていたから、護身用の扇子《せんす》も持たぬ。路傍《みちばた》に藪《やぶ》はあっても、竹を挫《くじ》き、枝を折るほどの勢《いきおい》もないから、玉江《たまえ》の蘆《あし》は名のみ聞く、……湯のような浅沼《あさぬま》の蘆を折取《おりと》って、くるくるとまわしても、何、秋風が吹くものか。
 が、一刻も早く東京へ――唯《ただ》その憧憬《あこがれ》に、山も見ず、雲も見ず、無二無三《むにむさん》に道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖《いたどり》に着いた時は、杖《つえ》という字に縋《すが》りたい思《おもい》がした。――近頃は多く板取《いたどり》と書くのを見る。その頃、藁家《わらや》の軒札《のきふだ》には虎杖村と書いてあった。
 ふと、軒に乾した煙草の葉と、蕃椒《とうがらし》の間に、山駕籠《やまかご》の煤《すす》けたのが一挺|掛《かか》った藁家を見て、朽縁《くちえん》へ※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と掛けた。「小父《おじ》さんもう歩行《ある》けない。見なさる通りの書生坊《しょせっぽう》で、相当、お駄賃もあげられないけれど、中《なか》の河内《かわち》まで何とかして駕籠《かご》の都合は出来ないでしょうか。」「さればの。」耳にかけた輪数珠《わじゅず》を外《はず》すと、木綿《もめん》小紋《こもん》のちゃんちゃん子、経肩衣《きょうかたぎぬ》とかいって、紋の着いた袖なしを――外は暑いがもう秋だ――もっくりと着込んで、裏納戸《うらなんど》の濡縁《ぬれえん》に胡坐《あぐら》かいて、横背戸《よこせど》に倒れたまま真紅《まっか》の花の小さくなった、鳳仙花《ほうせんか》の叢《くさむら》を視《なが》めながら、煙管《きせる》を横銜《よこぐわ》えにしていた親仁《おやじ》が、一膝《ひとひざ》ずるりと摺《ず》って出て、「一肩《ひとかた》遣《や》っても進じょうがの、対手《あいて》を一つ聞かなくては、のう。」「お願いです、身体《からだ》もわるし、……実に弱りました。」「待たっせえ、何とかすべい。」お仏壇へ数珠を置くと、えいこらと立って、土間の足半《あしなか》を突掛《つッか》けた。五十の上だが、しゃんとした足つきで、石※[#「石+鬼」、第4水準2−82−48]道《いしころみち》を向うへ切って、樗《おうち》の花が咲重《さきかさな》りつつ、屋根ぐるみ引傾《ひっかたむ》いた、日陰の小屋へ潜《くぐ》るように入った、が、今度は経肩衣を引脱《ひきぬ》いで、小脇に絞って取って返した。「対手《あいて》も丁度|可《よ》かったで。」一人で駕籠《かご》を下《おろ》すのが、腰もしゃんと楽なもので。――相棒の肩も広い、年紀《とし》も少し少《わか》いのは、早や支度《したく》をして、駕籠の荷棒《にないぼう》を、えッしと担ぎ、片手に――はじめて視《み》た――絵で知ったほぼ想像のつく大きな蓑虫《みのむし》を提《さ》げて出て来たのである。「ああ、御苦労様――松明《たいまつ》ですか。」「えい、松明でゃ。」「途中、山路で日が暮れますか。」「何、帰りの支度でゃ、夜嵐《よあらし》で提灯《ちょうちん》は持たねえもんだで。」中の河内までは、往還《ゆきかえり》六里余と聞く。――駕籠は夜をかけて引返すのである。
 留守に念も置かないで、そのまま駕籠を舁出《かきだ》した。「おお、あんばいが悪いだね、冷えてはなんめえ。」樹立《こだち》の暗くなった時、一度|下《おろ》して、二人して、二人が夜道の用意をした、どんつくの半纏《はんてん》を駕籠の屋根につけたのを、敷かせて、一枚。一枚、背中に当《あて》がって、情《なさけ》に包んでくれたのである。
 見上ぐる山の巌膚《いわはだ》から、清水は雨に滴《し
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