たた》って、底知れぬ谷暗く、風は梢《こずえ》に渡りつつ、水は蜘蛛手《くもで》に岨《そば》を走って、駕籠は縦になって、雲を仰ぐ。
 前棒《さきぼう》の親仁《おやじ》が、「この一山《ひとやま》の、見さっせえ、残らず栃《とち》の木の大木でゃ。皆|五抱《いつかか》え、七抱《ななかか》えじゃ。」「森々《しんしん》としたもんでがんしょうが。」と後棒《あとぼう》が言《ことば》を添える。「いかな日にも、はあ、真夏の炎天にも、この森で一度雨の降らぬ事はねえのでの。」清水の雫《しずく》かつ迫り、藍縞《あいじま》の袷《あわせ》の袖《そで》も、森林の陰に墨染《すみぞめ》して、襟《えり》はおのずから寒かった。――「加州家《かしゅうけ》の御先祖が、今の武生《たけふ》の城にござらしった時から、斧《おの》入れずでの。どういうものか、はい、御維新前まで、越前の中《うち》で、此処《ここ》一山《ひとやま》は、加賀《かが》領でござったよ――お前様、なつかしかんべい。」「いや、僕は些《ちっ》とでも早く東京へ行《ゆ》きたいんだよ。」「お若いで、えらい元気じゃの。……はいよ。」「おいよ。」と声を合わせて、道割《みちわれ》の小滝を飛んだ。
 私は駕籠の手に確《しか》と縋《すが》った。
 草に巨人の足跡の如き、沓形《くつがた》の峯の平地《ひらち》へ出た。巒々《らんらん》相迫《あいせま》った、かすかな空は、清朗にして、明碧《めいへき》である。
 山気《さんき》の中に優しい声して、「お掛けなさいましな。」軒は巌《いわ》を削れる如く、棟《むね》広く柱黒き峯の茶屋に、木の根のくりぬきの火鉢を据えて、畳《たたみ》二畳にも余りなん、大熊の皮を敷いた彼方《かなた》に、出迎えた、むすび髪の色白な若い娘は、唯《と》見ると活けるその熊の背に、片膝して腰を掛けた、奇《く》しき山媛《やまひめ》の風情《ふぜい》があった。
 袖も靡《なび》く。……山嵐|颯《さっ》として、白い雲は、その黒髪《くろかみ》の肩越《かたごし》に、裏座敷の崖の欄干《てすり》に掛って、水の落つる如く、千仭《せんじん》の谷へ流れた。
 その裏座敷に、二人一組、別に一人、一人は旅商人《たびあきゅうど》、二人は官吏らしい旅客がいて憩った。いずれも、柳《やな》ヶ瀬《せ》から、中の河内|越《ごえ》して、武生へ下《くだ》る途中なのである。
 横づけの駕籠を覗《のぞ》いて、親仁が、「お前さま、おだるけりゃ、お茶を取って進ぜますで。」「いいえ出ますから。」
 娘が塗盆《ぬりぼん》に茶をのせて、「あの、栃《とち》の餅《もち》、あがりますか。」「駕籠屋さんたちにもどうぞ。」「はい。」――其処《そこ》に三人の客にも酒はない。皆栃の実の餅の盆を控えていた。
 娘の色の白妙《しろたえ》に、折敷《おしき》の餅は渋《しぶ》ながら、五ツ、茶の花のように咲いた。が、私はやっぱり腹が痛んだ。
 勘定の時に、それを言って断《ことわ》った。――「うまくないもののように、皆残して済みません。」ああ、娘は、茶碗を白湯《さゆ》に汲みかえて、熊の胆《い》をくれたのである。
 私は、じっと視《み》て、そしてのんだ。
 栃の餅を包んで差寄《さしよ》せた。「堅くなりましょうけれど、……あの、もう二度とお通りにはなりません。こんな山奥の、おはなしばかり、お土産《みやげ》に。――この実を入れて搗《つ》きますのです、あの、餅よりこれを、お土産に。」と、めりんすの帯の合せ目から、ことりと拾って、白い掌《て》で、こなたに渡した。
 小さな鶏卵《たまご》の、軽く角《かど》を取って扁《ひら》めて、薄漆《うすうるし》を掛けたような、艶《つや》やかな堅い実である。
 すかすと、きめに、うすもみじの影が映《うつ》る。
 私はいつまでも持っている。

 手箪笥《てだんす》の抽斗《ひきだし》深く、時々|思出《おもいだ》して手に据《す》えると、殻《から》の裡《なか》で、優《やさ》しい音《ね》がする。



底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
   2001(平成13)年2月5日第21刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十七巻」岩波書店
   1942(昭和17)年10月初版発行
初出:「新小説」
   1924(大正13)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:米田進、鈴木厚司
2003年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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