咽喉《のど》の赤くなったのが可恐《おそろし》いよ。」
「とろりと旨《うま》いと酔うがなす。」
 にたにたと笑いながら、
「麦こがしでは駄目だがなす。」
「しかし……」
「お前様、それにの、鷺はの、明神様のおつかわしめだよ、白鷺明神というだでね。」
「ああ、そうか、あの向うの山のお堂だね。」
「余り人の行《ゆ》く処でねえでね。道も大儀だ。」
 と、なぜか中を隔てるように、さし覗《のぞ》く小県の目の前で、頭を振った。
 明神の森というと――あの白鷺はその梢へ飛んだ――なぜか爺が、まだ誰《たれ》も詣でようとも言わぬものを、悪く遮りだてするらしいのに、反感を持つとまでもなかったけれども、すぐにも出掛けたい気が起った。黒塚の婆《ばば》の納戸で、止《や》むを得ない。
「――時に、和尚さんは、まだなかなか帰りそうに見えないね。とすると、位牌《いはい》も過去帳も分らない。……」
「何しろ、この荒寺だ、和尚は出がちだよって、大切な物だけは、はい、町の在家の確かな蔵に預けてあるで。」
「また帰途《かえり》に寄るとしよう。」
 不意に立掛けた。が、見掛けた目にも、若い綺麗《きれい》な人の持ものらしい提紙入《ハンドバック》に心を曳《ひ》かれた。またそれだけ、露骨に聞くのが擽《くすぐ》ったかったのを、ここで銑吉が棄鞭《すてむち》を打った。
「お爺さん、お寺には、おかみさん、いや、奥さんか。」
 小さな声で、
「おだいこくがおいでかね。」
「は、とんでもねえ、それどころか、檀那《だんな》がねえで、亡者も居ねえ。だがな、またこの和尚が世棄人過ぎた、あんまり悟りすぎた。参詣の女衆《おなごしゅ》が、忘れたればとって、預けたればとって、あんだ、あれは。」
 と、せきこんで、
「……外廻りをするにして、要心に事を欠いた。木魚を圧《おし》に置くとは何《あん》たるこんだ。」
 と、やけに突立《つった》つ膝がしらに、麦こがしの椀を炉の中へ突込《つっこ》んで、ぱっと立つ白い粉に、クシンと咽《む》せたは可笑《おかし》いが、手向《たむけ》の水の涸《か》れたようで、見る目には、ものあわれ。
 もくりと、掻落すように大木魚を膝に取って、
「ぼっかり押孕《おっぱら》んだ、しかも大《でっか》い、木魚講を見せつけられて、どんなにか、はい、女衆は恥かしかんべい。」
 その時、提紙入《ハンドバック》の色が、紫陽花《あじさい》の浅葱《あさぎ》淡く、壁の暗さに、黒髪も乱れつつ、産婦の顔の萎《しお》れたように見えたのである。
 谷間の卵塔に、田沢氏の墓のただ一基|苔《こけ》の払われた、それを思え。
「お爺さん、では、あの女の持ものは、お産で死んだ記念《かたみ》の納《おさめ》ものででもあるのかい。」
 べそかくばかりに眉を寄せて、
「牡丹に立った白鷺になるよりも、人間は娑婆《しゃば》が恋しかんべいに、産で死んで、姑獲鳥《うぶめ》になるわ。びしょびしょ降《ぶり》の闇暗《くらやみ》に、若い女が青ざめて、腰の下さ血だらけで、あのこわれ屋の軒の上へ。……わあ、情《なさけ》ない。……お救い下され、南無普門品《なむふもんぼん》、第二十五。」
 と炉縁をずり直って、たとえば、小県に股引の尻を見せ、向うむきに円く踞《うずくま》ったが、古寺の狸などを論ずべき場合でない――およそ、その背中ほどの木魚にしがみついて、もく、もく、もく、もく、と立てつけに鳴らしながら、
「南無普門品第二十五。」
「普門品第二十五。」
 小県も、ともに口の裡《うち》で。
「この寺に観世音。」
「ああ居らっしゃるとも、難有《ありがた》い、ありがたい……」
「その本堂に。」
「いや、あちらの棟だ。――ああ、参らっしゃるか。」
「参ろうとも。」
「おお、いい事だ、さあ、ござい、ござい。」
 と抱込んだ木魚を、もく、もくと敲《たた》きながら、足腰の頑丈づくりがひょこひょこと前《さき》へ立った。この爺さん、どうかしている。
 が、導かれて、御廚子《みずし》の前へ進んでからは――そういう小県が、かえって、どうかしないではいられなくなったのである。
 この庫裡《くり》と、わずかに二棟、隔ての戸もない本堂は、置棚の真中《まんなか》に、名号《みょうごう》を掛けたばかりで、その外の横縁に、それでも形《かた》ばかり階段が残った。以前は橋廊下で渡ったらしいが、床板の折れ挫《ひしゃ》げたのを継合せに土に敷いてある。
 明神の森が右の峰、左に、卵塔場を谷に見て、よく一人で、と思うばかり、前刻《さっき》彳《たたず》んだ、田沢氏の墓はその谷の草がくれ。
 向うの階《きざはし》を、木魚が上《あが》る。あとへ続くと、須弥壇《しゅみだん》も仏具も何もない。白布を蔽《おお》うた台に、経机を据えて、その上に黒塗の御廚子があった。
 庫裡の炉の周囲《まわり》は筵《むしろ》である。ここ
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