ちらはね、片原へ恋人に逢いにいらっしゃったんだそうですから。」
 しっぺい返しに、女中にトンと背中を一つ、くらわされて、そのはずみに、ひょいと乗った。元来おもみのある客ではない。
「へい御機嫌よう……お早く、お帰りにどうぞ。」
 番頭の愛想を聞流しに乗って出た。
 惜《おし》いかな、阿武隈《あぶくま》川の川筋は通らなかった。が、県道へ掛《かか》って、しばらくすると、道の左右は、一様に青葉して、梢《こずえ》が深く、枝が茂った。一里ゆき、二里ゆき、三里ゆき、思いのほか、田畑も見えず、ほとんど森林地帯を馳《はし》る。……
 座席の青いのに、濃い緑が色を合わせて、日の光は、ちらちらと銀の蝶の形して、影も翼も薄青い。
 人《じん》、馬《ば》、時々|飛々《とびとび》に数えるほどで、自動車の音は高く立ちながら、鳴く音《ね》はもとより、ともすると、驚いて飛ぶ鳥の羽音が聞こえた。
 一二軒、また二三軒。山吹、さつきが、淡い紅《あか》に、薄い黄に、その背戸、垣根に咲くのが、森の中の夜《よ》があけかかるように目に映ると、同時に、そこに言合せたごとく、人影が顕《あら》われて、門《かど》に立ち、籬《まがき》に立つ。
 村人よ、里人よ。その姿の、轍《わだち》の陰にかくれるのが、なごり惜《おし》いほど、道は次第に寂しい。
 宿に外套《がいとう》を預けて来たのが、不用意だったと思うばかり、小県は、幾度《いくたび》も襟を引合わせ、引合わせしたそうである。
 この森の中を行《ゆ》くような道は、起伏凹凸が少く、坦《たいら》だった。がしかし、自動車の波動の自然に起るのが、波に揺らるるようで便りない。埃《ほこり》も起《た》たず、雨のあとの樹立《こだち》の下は、もちろん濡色が遥《はるか》に通っていた。だから、偶《たま》に行逢う人も、その村の家も、ただ漂々|蕩々《とうとう》として陰気な波に揺られて、あとへ、あとへ、漂って消えて行《ゆ》くから、峠の上下《うえした》、並木の往来で、ゆき迎え、また立顧みる、旅人同士とは品かわって、世をかえても再び相逢うすべのないような心細さが身に沁《し》みたのであった。
 かあ、かあ、かあ、かあ。
 鈍くて、濁って、うら悲しく、明るいようで、もの陰気で。
「烏がなくなあ。」
「群れておるです。」
 運転手は何を思ったか、口笛を高く吹いて、
「首くくりでもなけりゃいいが、道端の枝に……いやだな。」
 うっかり緩めた把手《ハンドル》に、衝《つ》と動きを掛けた時である。ものの二三町は瞬く間だ。あたかもその距離の前途《ゆくて》の右側に、真赤《まっか》な人のなりがふらふらと立揚《たちあが》った。天象、地気、草木、この時に当って、人事に属する、赤いものと言えば、読者は直ちに田舎娘の姨《おば》見舞か、酌婦の道行振《みちゆきぶり》を瞳に描かるるであろう。いや、いや、そうでない。
 そこに、就中《なかんずく》巨大なる杉の根に、揃って、踞《つくば》っていて、いま一度に立揚ったのであるが、ちらりと見た時は、下草をぬいて燃ゆる躑躅《つつじ》であろう――また人家がある、と可懐《なつか》しかった。
 自動車がハタと留まって、窓を赤く蔽《おお》うまで、むくむくと人数《にんず》が立ちはだかった時も、斉《ひと》しく、躑躅の根から湧上《わきあが》ったもののように思われた。五人――その四人は少年である。……とし十一二三ばかり。皆真赤なランニング襯衣《しゃつ》で、赤い運動帽子を被《かぶ》っている。彼等を率いた頭目らしいのは、独り、年配五十にも余るであろう。脊の高い瘠男《やせおとこ》の、おなじ毛糸の赤襯衣を着込んだのが、緋《ひ》の法衣《ころも》らしい、坊主袖の、ぶわぶわするのを上に絡《まと》って、脛《すね》を赤色の巻きゲエトル。赤革の靴を穿《は》き、あまつさえ、リボンでも飾った状《さま》に赤木綿の蔽《おおい》を掛け、赤い切《きれ》で、みしと包んだヘルメット帽を目深《まぶか》に被った。……
 頤骨《あごぼね》が尖《とが》り、頬がこけ、無性髯《ぶしょうひげ》がざらざらと疎《あら》く黄味を帯び、その蒼黒《あおぐろ》い面色《かおいろ》の、鈎鼻《かぎばな》が尖って、ツンと隆《たか》く、小鼻ばかり光沢《つや》があって蝋色《ろういろ》に白い。眦《まなじり》が釣り、目が鋭く、血の筋が走って、そのヘルメット帽の深い下には、すべての形容について、角が生えていそうで不気味に見えた。
 この頭目、赤色《せきしょく》の指導者が、無遠慮に自動車へ入ろうとして、ぎろりと我が銑吉を視《み》て、胸《むな》さきで、ぎしと骨張った指を組んで合掌した……変だ。が、これが礼らしい。加うるに慇懃《いんぎん》なる会釈だろう。けれども、この恭屈頂礼をされた方は――また勿論されるわけもないが――胸を引掻《ひっか》いて、腸《はらわた》で
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