気なばかりが女でない。同時に芬《ぷん》と、媚《なまめ》かしい白粉《おしろい》の薫《かおり》がした。
爺が居て気がつかなかったか。木魚を置いたわきに、三宝が据って、上に、ここがもし閻魔堂《えんまどう》だと、女人を解いた生血と膩肉《あぶらみ》に紛《まが》うであろう、生々《なまなま》と、滑かな、紅白の巻いた絹。
「ああ、誓願のその一、求児――子育《こそだて》、子安の観世音として、ここに婦人の参詣がある。」
世に、参り合わせた時の順に、白は男、紅《あか》は女の子を授けらるる……と信仰する、観世音のたまう腹帯である。
その三宝の端に、薄色の、折目の細い、女扇が、忘れたように載っていた。
正面の格子も閉され、人は誰も居ない……そっと取ると、骨が水晶のように手に冷《ひや》りとした。卯の花の影が、ちらちらと砂子を散らして、絵も模様も目には留まらぬさきに――せい……せい、と書いた女文字。
今度は、覚えず瞼《まぶた》が染まった。
銑吉には、何を秘《かく》そう、おなじ名の恋人があったのである。
五
作者は、小県銑吉の話すまま、つい釣込まれて、恋人――と受次いだが、大切な処だ。念のため断るが、銑吉には、はやく女房がある。しかり、女房があって資産がない。女房もちの銭《ぜに》なしが当世色恋の出来ない事は、昔といえども実はあまりかわりはない。
打あけて言えば、渠《かれ》はただ自分勝手に、惚《ほ》れているばかりなのである。
また、近頃の色恋は、銀座であろうが、浅草であろうが、山の手新宿のあたりであろうが、つつしみが浅く、たしなみが薄くなり、次第に面の皮が厚くなり、恥が少くなったから、惚れたというのに憚《はばか》ることだけは、まずもってないらしい。
釣の道でも(岡)と称《な》がつくと軽《かろ》んぜられる。銑吉のも、しかもその岡惚れである。その癖、夥間《なかま》で評判である。
この岡惚れの対象となって、江戸育ちだというから、海津か卵であろう、築地辺の川端で迷惑をするのがお誓さんで――実は梅水という牛屋の女中《ねえ》さん。……御新規お一人様、なまで御酒《ごしゅ》……待った、待った。そ、そんなのじゃ決してない。第一、お客に、むらさきだの、鍋下《なべした》だのと、符帳でものを食うような、そんなのも決して無い。
梅水は、以前築地一流の本懐石、江戸前の料理人が庖丁を※[
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