葱《あさぎ》淡く、壁の暗さに、黒髪も乱れつつ、産婦の顔の萎《しお》れたように見えたのである。
谷間の卵塔に、田沢氏の墓のただ一基|苔《こけ》の払われた、それを思え。
「お爺さん、では、あの女の持ものは、お産で死んだ記念《かたみ》の納《おさめ》ものででもあるのかい。」
べそかくばかりに眉を寄せて、
「牡丹に立った白鷺になるよりも、人間は娑婆《しゃば》が恋しかんべいに、産で死んで、姑獲鳥《うぶめ》になるわ。びしょびしょ降《ぶり》の闇暗《くらやみ》に、若い女が青ざめて、腰の下さ血だらけで、あのこわれ屋の軒の上へ。……わあ、情《なさけ》ない。……お救い下され、南無普門品《なむふもんぼん》、第二十五。」
と炉縁をずり直って、たとえば、小県に股引の尻を見せ、向うむきに円く踞《うずくま》ったが、古寺の狸などを論ずべき場合でない――およそ、その背中ほどの木魚にしがみついて、もく、もく、もく、もく、と立てつけに鳴らしながら、
「南無普門品第二十五。」
「普門品第二十五。」
小県も、ともに口の裡《うち》で。
「この寺に観世音。」
「ああ居らっしゃるとも、難有《ありがた》い、ありがたい……」
「その本堂に。」
「いや、あちらの棟だ。――ああ、参らっしゃるか。」
「参ろうとも。」
「おお、いい事だ、さあ、ござい、ござい。」
と抱込んだ木魚を、もく、もくと敲《たた》きながら、足腰の頑丈づくりがひょこひょこと前《さき》へ立った。この爺さん、どうかしている。
が、導かれて、御廚子《みずし》の前へ進んでからは――そういう小県が、かえって、どうかしないではいられなくなったのである。
この庫裡《くり》と、わずかに二棟、隔ての戸もない本堂は、置棚の真中《まんなか》に、名号《みょうごう》を掛けたばかりで、その外の横縁に、それでも形《かた》ばかり階段が残った。以前は橋廊下で渡ったらしいが、床板の折れ挫《ひしゃ》げたのを継合せに土に敷いてある。
明神の森が右の峰、左に、卵塔場を谷に見て、よく一人で、と思うばかり、前刻《さっき》彳《たたず》んだ、田沢氏の墓はその谷の草がくれ。
向うの階《きざはし》を、木魚が上《あが》る。あとへ続くと、須弥壇《しゅみだん》も仏具も何もない。白布を蔽《おお》うた台に、経机を据えて、その上に黒塗の御廚子があった。
庫裡の炉の周囲《まわり》は筵《むしろ》である。ここ
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