物がしたくってなりません。――そうお母《っか》さんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込《ふさぎこ》んでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可《いけ》ないと思って強請《ねだ》ったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にも誉《ほ》められたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日《きのう》、一昨日《おととい》までだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊《すり》の手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜《くや》しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱《ふさ》いでいるのはその事でしょう。可《い》いじゃありませんか。蹈《ふ》んだり蹴《け》たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のお母《っか》さんもそう云いました。蔦がどんな苦労でも楽《たのし》みにしますから、お世帯向は決《け》して御心配なさいますなって、……云ってましたよ。
早瀬 難有《ありがた》い、俺《おい》ら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のお母《っか》さんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲も懸《かか》るだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇《やみ》にもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷《きとう》は身勝手、御不沙汰《ごぶさた》の御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴《ぐち》を云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年《みどし》で、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間《ま》よ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くが可《い》い、つい
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