でお茶菓子の越《こし》の雪、否、広袖だの、秋風だの、越の雪だのと、お愛想までが薄ら寒い谷川の音ももの寂しい。
湯上りで、眠気は差したり、道中記を記《つ》けるも懶《ものう》し、入《い》る時帳場で声を懸けたのも、座敷へ案内をしたのも、浴衣を持って来たのも、お背中を流しましょうと言ったのも、皆|手隙《てすき》と見えて、一人々々|入交《いれかわ》ったが、根津、鶯谷はさて置いて柳原にもない顔だ、於雪と云うのはどうしたろう、おや女の名で、また寒くなった、これじゃ晩に熱燗《あつかん》で一杯遣らずばなるまい。
四
鮎《あゆ》の大きいのは越中の自慢でありますが、もはや落鮎になっておりますけれども、放生津《ほうじょうづ》の鱈《たら》や、氷見《ひみ》の鯖《さば》より優《まし》でありまするから、魚田《ぎょでん》に致させまして、吸物は湯山《ゆさん》の初茸《はつたけ》、後は玉子焼か何かで、一|銚子《ちょうし》つけさせまして、杯洗《はいせん》の水を切るのが最初《はじまり》。
「姉さん、お前に一つ。」
などと申しまする時分には、小宮山も微酔《ほろよい》機嫌、向うについておりますのは、目指すお雪ではなくて、初霜とや謂わむ。薄く塗った感心に襟脚の太くない、二十歳《はたち》ばかりの、愛嬌《あいきょう》たっぷりの女で、二つ三つは行ける口、四方山《よもやま》の話も機《はず》む処から、小宮山も興に入り、思わず三四合を傾けまする。
後《うしろ》の花が遠州で、前の花が池の坊に座を構え、小宮山は古流という身で、くの字になり、ちょいと杯を差置きましたが、
「姉さん、新らしく尋ねるまでもないが、ここはたしか柏屋だね。」
「はい、さようでございますよ。」
「柏屋だとするとその何、姉さんが一人ある筈《はず》だね。」
「皆《みんな》で四人《よったり》。」
「四人? 成程四人かね。」
「お喜代さん、お美津さん、お雪さんに私でございます。」
「何、お雪さんと云うのが居る?」
と小宮山は、金の脈を掘当てましたな、かねての話が事実となったのでありますから、漫《そぞろ》に勇んだので乗出しようが尋常事《ただごと》でありませんから、
「おや。」
小宮山はわざとらしく威儀を備え、
「そうだ、お前さんの名は何と云う。」
「そうだは御挨拶でございますこと、私は名も何《なんに》もございませんよ。」
「いいえさ、何と云うのだ。」
「お雪さんにお聞きなさいまし、貴方《あなた》は御存じでいらっしゃるんだよ、可憎《にくら》しゅうございますねえ、でもあのお気の毒さまでございますこと、お雪さんは貴方、久しい間病気で臥《ふせ》っておりますが。」
「何、病気だい、」
「はあ、ぶらぶら病《やまい》なんでございますが、このごろはまた気候が変りましたので、めっきりお弱んなすったようで、取乱しておりますけれど、貴方御用ならばちょいとお呼び申してみましょうか。」
「いえ、何、それにゃ及ばないよ。」
「あのう、きっと参りましょうよ、外ならぬ貴方様の事でございますもの。」
「どうでしょうか、此方様《こなた》にも御存じはなしさ、ただ好《い》い女だって途中で聞いて来たもんだから、どうぞ悪《あ》しからず。」
「どう致しまして、憚様《はばかりさま》。」
と言ったばかり、ちょいと言葉が途絶えましたから、小宮山は思い出したように、
「何と云うのだね、お前さんは。」
「手前は柏屋でございます。」
小宮山は苦笑《にがわらい》を致しましたが、已《や》む事を得ず、
「それじゃ柏屋の姉さん、一つ申上げることにしよう。」
「まあお酌を致しましょう。私だって可《い》いじゃありませんか、あれさ。」
「いや全く。お雪さんでも、酒はもう可かんのだよ。」
「それじゃ御飯をおつけ申しましょう、ですがお給仕となるとなおの事、誰かにおさせなさりとうございましょうね。」
「何、それにゃ及ばんから、御贔屓《ごひいき》分に盛《もり》を可《よ》く、ね。」
「いえ、道中筋で盛の可いのは、御家来衆に限りますとさ、殿様は軽くたんと換えて召食《めしあが》りまし。はい、御膳《ごぜん》。」
「洒落《しゃれ》かい、いよ柏屋の姉さん、本当に名を聞かせておくれよ。」
「手前は柏屋でございます。」
「お前の名を問うのだよ。」
「手前は柏屋でございます。」
と上手に御飯を装《よそ》いながら、ぽたぽた愛嬌を溢《こぼ》しますよ。
五
御膳の時さえ、何かと文句があったほど、この分では寝る時は容易でなかろうと、小宮山は内々恐縮をしておりましたが、女は大人しく床を伸べてしまいました。夜具は申すまでもなく、絹布《けんぷ》の上、枕頭《まくらもと》の火桶《ひおけ》へ湯沸《ゆわかし》を掛けて、茶盆をそれへ、煙草盆に火を生ける、手当が行届くのでありまする。
あまりの上首尾、小宮山は空可恐《そらおそろ》しく思っております。女は慇懃《いんぎん》に手を突いて、
「それでは、お緩《ゆっく》り御寝《おやす》みなさいまし、まだお早うございますから、私共は皆《みんな》起きております、御用がございましたら御遠慮なく手をお叩き遊ばして、それからあのお湯でございますが、一晩沸いておりますから、幾度でも御自由に御入り遊ばして、お草臥《くたびれ》にも、お体にも大層利きますんでございますよ。」
と大人しやかに真面目《まじめ》な挨拶、殊勝な事と小宮山も更《あらたま》り、
「色々お世話だった。お蔭で心持|好《よ》く手足を伸すよ、姐《ねえ》さんお前ももう休んでおくれ。」
「はい、難有《ありがと》うございます、それでは。」
と言って行こうとしましたが、ふと坐り直しましたから、小宮山は、はてな、柏屋の姐さん、ここらでその本名を名告《なの》るのかと可笑《おか》しくもございまする。
すると、女は後先を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しましたが、じりじりと寄って参り、
「時につかぬ事をお伺い申しまして、恐れ入りますが、貴方は方々御旅行をなさいまして、可恐《おそろ》しい目にお逢い遊ばした事はございませんか。」
小宮山は、妙な事を聞くと思いましたが、早速、
「いや、幸い暴風雨《あらし》にも逢わず、海上も無事で、汽車に間違もなかった。道中の胡麻《ごま》の灰などは難有《ありがた》い御代《みよ》の事、それでなくっても、見込まれるような金子《かね》も持たずさ、足も達者で一日に八里や十里の道は、団子を噛《かじ》って野々宮|高砂《たかさご》というのだから、ついぞまあこれが可恐《おそろ》しいという目に逢った事はないんだよ。」
「いえ、そんな事ではないのでございます。狸が化けたり、狐が化けたり、大入道が出ましたなんて、いうような、その事でございます。」
「馬鹿な事を言っちゃ可《い》かん、子供が大人になったり、嫁が姑《しゅうと》になったりするより外、今時化けるって奴《やつ》があるものか。」
と一言の許《もと》に笑って退《の》けたが、小宮山はこの女何を言うのかしらと、かえって眉毛に唾《つば》を附けたのでありまする、女は極く生真面目で、
「実はお客様、誠に申兼ねましたが、少々お願いがございますんですよ、外の事ではありませんが、さっき貴方のお口からも、ちょいとお話のございました、あのお雪さんの事でございますが、佳《い》い女はなぜあんなに体が弱いのでございましょうねえ。平生《ふだん》からの処へ、今度煩い附きまして、もう二月三月、十日ばかり前から、また大変に悩みますので、医者と申しましても、三里も参らねばなりませぬ。薬も何も貴方何の病気だか、誰にも考えが附きませぬので、ただもう体の補いになりますようなものを食べさしておくばかりでございますが、このごろじゃ段々|痩《や》せ細って、お粥《かゆ》も薄いのでなければ戴《いただ》かないようになりました。気心の好《い》い平生《ふだん》大人しい人でありますから、私共始め御主人も、かれこれ気を揉《も》んでおりますけれども、どこが痛むというではなし、苦しいというではなし、労《いたわ》りようがないのでございますよ。それでね、貴方、その病気と申しますのが、風邪を引いたの、お肚《なか》を痛めたのというのではない様子で、まあ、申せば、何か生霊《いきりょう》が取着《とッつ》いたとか、狐が見込んだとかいうのでございましょう。何でも悩み方が変なのでございますよ。その証拠には毎晩同じ時刻に魘《うな》されましてね。」
小宮山も他人《ひと》ごとのようには思いませぬ。
六
「その時はどんなに可恐《おそろ》しゅうございましょう、苦しいの、切ないの、一層殺して欲しいの、とお雪さんが呻《うめ》きまして、ひいひい泣くんでございますもの、そしてね貴方、誰かを掴《つかま》えて話でもするように、何だい誰だ、などと言うではございませんか、その時はもう内曲《うちわ》の者一同、傍《そば》へ参りますどころではございませんよ、何だって貴方、異類異形のものが、病人の寝間にむらむらしておりますようで、遠くにいて皆《みんな》が耳を塞《ふさ》いで、突伏《つッぷ》してしまいますわ。
それですから、その苦しみます時|傍《そば》に附いていて、撫《な》で擦《さす》りなどする事は誰も怪我《けが》にも出来ません。病人は薬より何より、ただ一晩おちおち心持好く寐《ね》て、どうせ助らないものを、せめてそれを思い出にして死にたいと。肩息で貴方ね、口癖のように申すんですよ、どうぞまあそれだけでも協《かな》えてやりたいと、皆《みんな》が心配をしますんですが、加持祈祷《かじきとう》と申しましても、どうして貴方ここいらは皆《みんな》狸の法印、章魚《たこ》の入道ばっかりで、当《あて》になるものはありゃしませぬ。
それに、本人を倚掛《よっかか》らせますのには、しっかりなすって、自分でお雪さんが頼母《たのも》しがるような方でなくっちゃ可《い》けますまい、それですのにちょいちょいお見えなさいまする、どのお客様も、お止し遊ばせば可いのに、お妖怪《ばけ》と云えば先方《さき》で怖がります、田舎の意気地《いくじ》無しばかり、俺《おいら》は蟒蛇《うわばみ》に呑まれて天窓《あたま》が兀《は》げたから湯治に来たの、狐に蚯蚓《みみず》を食わされて、それがためお肚《なか》を痛めたの、天狗に腕を折られたの、私共が聞いてさえ、馬鹿々々しいような事を言って、それが真面目だろうじゃありませんか。
ですもの、どうして病人の力になんぞ、なってくれる事が出来ましょう。
こう申しちゃ押着けがましゅうございますが、貴方はお見受け申したばかりでも、そんな怪しげな事を爪先へもお取上げ遊ばすような御様子は無い、本当に頼母しくお見上げ申しますんで。
実は病人は貴方の御話を致しました処、そうでなくってさえ東京のお方と聞いて、病人は飛立つばかり、どうぞお慈悲にと申しますのは、私共からもお願い申して上げますのでございますが、誠に申しかねましたが、一晩お傍《そば》で寝かしくださいまして、そうして本人の願《ねがい》を協《かな》えさしてやって下さいまし、後生でございますから。
それに様子をお見届け下さいますれば、どんなにか難有《ありがと》うございましょう。」
としみじみ、早口の女の声も理に落ちまして、いわゆる誠はその色に顕《あらわ》れたのでありますから、唯今怪しい事などは、身の廻り百由旬《ひゃくゆじゅん》の内へ寄せ附けないという、見立てに預《あずか》りました小宮山も、これを信じない訳には行かなくなったのでありまする。
「そりゃ何しろとんだ事だ、私は武者修行じゃないのだから、妖怪を退治るという腕節《うでっぷし》はないかわりに、幸い臆病《おくびょう》でないだけは、御用に立って、可いとも! 望みなら一晩看病をして上げよう。ともかくも今のその話を聞いても、その病人を傍《そば》へ寝かしても、どうか可恐《おそろ》しくないように思われるから。」
と小宮山は友人の情婦《いろ》ではあり、煩っているのが可哀そうでもあり、殊には血気|壮《さかん》なものの好奇心も手伝って、異議なく承知を致しま
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