うのだ。」
「お雪さんにお聞きなさいまし、貴方《あなた》は御存じでいらっしゃるんだよ、可憎《にくら》しゅうございますねえ、でもあのお気の毒さまでございますこと、お雪さんは貴方、久しい間病気で臥《ふせ》っておりますが。」
「何、病気だい、」
「はあ、ぶらぶら病《やまい》なんでございますが、このごろはまた気候が変りましたので、めっきりお弱んなすったようで、取乱しておりますけれど、貴方御用ならばちょいとお呼び申してみましょうか。」
「いえ、何、それにゃ及ばないよ。」
「あのう、きっと参りましょうよ、外ならぬ貴方様の事でございますもの。」
「どうでしょうか、此方様《こなた》にも御存じはなしさ、ただ好《い》い女だって途中で聞いて来たもんだから、どうぞ悪《あ》しからず。」
「どう致しまして、憚様《はばかりさま》。」
 と言ったばかり、ちょいと言葉が途絶えましたから、小宮山は思い出したように、
「何と云うのだね、お前さんは。」
「手前は柏屋でございます。」
 小宮山は苦笑《にがわらい》を致しましたが、已《や》む事を得ず、
「それじゃ柏屋の姉さん、一つ申上げることにしよう。」
「まあお酌を致しましょう。私だって可《い》いじゃありませんか、あれさ。」
「いや全く。お雪さんでも、酒はもう可かんのだよ。」
「それじゃ御飯をおつけ申しましょう、ですがお給仕となるとなおの事、誰かにおさせなさりとうございましょうね。」
「何、それにゃ及ばんから、御贔屓《ごひいき》分に盛《もり》を可《よ》く、ね。」
「いえ、道中筋で盛の可いのは、御家来衆に限りますとさ、殿様は軽くたんと換えて召食《めしあが》りまし。はい、御膳《ごぜん》。」
「洒落《しゃれ》かい、いよ柏屋の姉さん、本当に名を聞かせておくれよ。」
「手前は柏屋でございます。」
「お前の名を問うのだよ。」
「手前は柏屋でございます。」
 と上手に御飯を装《よそ》いながら、ぽたぽた愛嬌を溢《こぼ》しますよ。

       五

 御膳の時さえ、何かと文句があったほど、この分では寝る時は容易でなかろうと、小宮山は内々恐縮をしておりましたが、女は大人しく床を伸べてしまいました。夜具は申すまでもなく、絹布《けんぷ》の上、枕頭《まくらもと》の火桶《ひおけ》へ湯沸《ゆわかし》を掛けて、茶盆をそれへ、煙草盆に火を生ける、手当が行届くのでありまする。
 あまりの上首尾、小宮山は空可恐《そらおそろ》しく思っております。女は慇懃《いんぎん》に手を突いて、
「それでは、お緩《ゆっく》り御寝《おやす》みなさいまし、まだお早うございますから、私共は皆《みんな》起きております、御用がございましたら御遠慮なく手をお叩き遊ばして、それからあのお湯でございますが、一晩沸いておりますから、幾度でも御自由に御入り遊ばして、お草臥《くたびれ》にも、お体にも大層利きますんでございますよ。」
 と大人しやかに真面目《まじめ》な挨拶、殊勝な事と小宮山も更《あらたま》り、
「色々お世話だった。お蔭で心持|好《よ》く手足を伸すよ、姐《ねえ》さんお前ももう休んでおくれ。」
「はい、難有《ありがと》うございます、それでは。」
 と言って行こうとしましたが、ふと坐り直しましたから、小宮山は、はてな、柏屋の姐さん、ここらでその本名を名告《なの》るのかと可笑《おか》しくもございまする。
 すると、女は後先を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しましたが、じりじりと寄って参り、
「時につかぬ事をお伺い申しまして、恐れ入りますが、貴方は方々御旅行をなさいまして、可恐《おそろ》しい目にお逢い遊ばした事はございませんか。」
 小宮山は、妙な事を聞くと思いましたが、早速、
「いや、幸い暴風雨《あらし》にも逢わず、海上も無事で、汽車に間違もなかった。道中の胡麻《ごま》の灰などは難有《ありがた》い御代《みよ》の事、それでなくっても、見込まれるような金子《かね》も持たずさ、足も達者で一日に八里や十里の道は、団子を噛《かじ》って野々宮|高砂《たかさご》というのだから、ついぞまあこれが可恐《おそろ》しいという目に逢った事はないんだよ。」
「いえ、そんな事ではないのでございます。狸が化けたり、狐が化けたり、大入道が出ましたなんて、いうような、その事でございます。」
「馬鹿な事を言っちゃ可《い》かん、子供が大人になったり、嫁が姑《しゅうと》になったりするより外、今時化けるって奴《やつ》があるものか。」
 と一言の許《もと》に笑って退《の》けたが、小宮山はこの女何を言うのかしらと、かえって眉毛に唾《つば》を附けたのでありまする、女は極く生真面目で、
「実はお客様、誠に申兼ねましたが、少々お願いがございますんですよ、外の事ではありませんが、さっき貴方のお口からも、ちょいとお話のご
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