示|杭《ぐい》に沿《つ》いて参りまする。
 行《ゆ》くことおよそ二里ばかり、それから爪先上《つまさきあが》りのだらだら坂になった、それを一里半、泊《とまり》を急ぐ旅人の心には、かれこれ三里余も来たらうと思うと、ようやく小川の温泉に着きましてございまする。
 志す旅籠屋は、尋ねると直ぐに知れた、有名なもので、柏屋金蔵。
 そのまま、ずっと小宮山は門口《かどぐち》に懸《かか》りまする。
「いらっしゃいまし。」
「お早いお着《つき》。」
「お疲れ様で。」
 と下女《おんな》共が口々に出迎えまする。
 帳場に居た亭主が、算盤《そろばん》を押遣って
「これ、お洗足《すすぎ》を。それ御案内を。」
 とちやほや、貴公子に対する待遇《もてなし》。服装《みなり》もお聞きの通り、それさえ、汗に染み、埃《ほこり》に塗《まみ》れた、草鞋穿《わらじばき》の旅人には、過ぎた扱いをいたしまする。この温泉場は、泊からわずか四五里の違いで、雪が二三尺も深いのでありまして、冬向は一切|浴客《よっかく》はありませんで、野猪《しし》、狼、猿の類《たぐい》、鷺《さぎ》の進《しん》、雁九郎《かりくろう》などと云う珍客に明け渡して、旅籠屋は泊の町へ引上げるくらい。賑《にぎわ》いますのは花の時分、盛夏|三伏《さんぷく》の頃《ころおい》、唯今はもう九月中旬、秋の初《はじめ》で、北国《ほっこく》は早く涼風《すずかぜ》が立ますから、これが逗留《とうりゅう》の客と云う程の者もなく、二階も下も伽藍堂《がらんどう》、たまたまのお客は、難船が山の陰を見附けた心持でありますから。
「こっちへ。」と婢女《おんな》が、先に立って導きました。奥座敷上段の広間、京間の十畳で、本床《ほんどこ》附、畳は滑るほど新らしく、襖《ふすま》天井は輝くばかり、誰《たれ》の筆とも知らず、薬草を銜《くわ》えた神農様の画像の一軸、これを床の間の正面に掛けて、花は磯馴《そなれ》、あすこいらは遠州が流行りまする処で、亭主の好きな赤烏帽子《あかえぼし》、行儀を崩さず生かっている。
 小宮山はその前に、悠然と控えました。
 さて、お茶、煙草《たばこ》盆、御挨拶《ごあいさつ》は略しまして、やがて持って来た浴衣に着換えて、一風呂浴びて戻る。誠や温泉の美くしさ、肌、骨までも透通り、そよそよと風が身に染みる、小宮山は広袖《どてら》を借りて手足を伸ばし、打縦《うちくつろ》い
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