宮山は開いた口が塞《ふさ》がらず。
「土地繁昌の基《もとい》で、それはお目出度い。時に、その小川の温泉までは、どのくらいの道だろう。」
「ははあ、これからいらっしゃるのでござりますか。それならば、山道三里半、車夫《くるまや》などにお尋ねになりますれば、五里半、六里などと申しますが、それは丁場の代価《ねだん》で、本当に訳はないのでござりまする。」
「ふむ、三里半だな可《よ》し。そして何かい柏屋《かしわや》と云う温泉宿は在るかね。」
「柏屋! ええもう小川で一等の旅籠屋《はたごや》、畳もこのごろ入換えて、障子もこのごろ張換えて、お湯もどんどん沸いております。」
と年甲斐もない事を言いながら、亭主は小宮山の顔を見て、いやに声を密《ひそ》めたのでありますな、怪《けし》からん。
「へへへ、好《い》い婦人《おんな》が居《お》りますぜ。」
「何を言っているんだ。」
「へへへ、お湯をさして参りましょうか。」
「お茶もたんと頂いたよ。」
と小宮山は傍《わき》を向いて、飲さしの茶を床几《しょうぎ》の外へざぶり明けて身支度に及びまする。
三
小宮山は亭主の前で、女の話を冷然として刎《は》ね附けましたが、密《ひそか》に思う処がないのではありませぬ。一体この男には、篠田《しのだ》と云う同窓の友がありまして、いつでもその口から、足下《そっか》もし折があって北陸道を漫遊したら、泊から訳はない、小川の温泉へ行って、柏屋と云うのに泊ってみろ、於雪《おゆき》と云って、根津や、鶯谷《うぐいすだに》では見られない、田舎には珍らしい、佳《い》い女が居るからと、度々聞かされたのでありますが、ただ、佳い女が居るとばかりではない、それが篠田とは浅からぬ関係があるように思われまする、小宮山はどの道一泊するものを、乾燥無味な旅籠屋に寝るよりは、多少|色艶《いろつや》っぽいその柏屋へと極《き》めたので。
さて、亭主の口と盆の上へ、若干《なにがし》かお鳥目をはずんで、小宮山は紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえ》、白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》、麦藁《むぎわら》帽子、脚絆《きゃはん》、草鞋《わらじ》という扮装《いでたち》、荷物を振分にして肩に掛け、既に片影が出来ておりますから、蝙蝠傘《こうもりがさ》は畳んで提《ひっさ》げながら、茶店を発《た》つて、従是《これより》小川温泉道と書いた、傍
前へ
次へ
全35ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング