あ私が償おう。いいえ、どうぞそうさしておくんなさい、大したことならば帰るまで待ってもらおうし、そんなでも無いなら遣《つか》って可いのを持っているから。」と思込んで言った。
「飛んでもない、貴下《あなた》、」と杉。
お若は知らぬ顔をして莞爾《にっこり》している。
此方《こなた》は熱心に、
「お願いだから、可いんだから、それでないと実に面目を失する。こうやって顔を合していても冷汗が出るほど、何だか極《きまり》が悪いんだ、夜々中《よるよなか》見ず知らずが入込んで、どうも変だ。」
「あなた、可いんですよ、私お金子を持っています、何にも遣わないお小遣《こづかい》が沢山《たんと》あるわ、銀のだの、貴下、紙幣《さつ》のだの、」といいながら、窮屈そうに坐って畏《かしこ》まっていた勝色《かちいろ》うらの褄《つま》を崩して、膝を横、投げ出したように玉の腕《かいな》を火鉢にかけて、斜《ななめ》に欽之助の面《おもて》を見た。姿も容《かたち》も、世にまたかほどまでに打解けた、ものを隠さぬ人を信じた、美しい、しかも蟠《わだかまり》のない言葉はあるまい。
左の衣兜
二十二
意外な言葉に、少年は呆《あき》れたような目をしながら、今更顔が瞻《みまも》られた、時に言うべからざる綺麗《きれい》な思《おもい》が此方《こなた》の胸にも通じたので。
しかも遠慮のない調子で、
「いずれお詫《わび》をする、更《あらた》めてお礼に来ましょうから、相済まんがどうぞ一番《ひとつ》、腕車《くるま》の世話をしておくんなさい。こういうお宅だから帳場にお馴染《なじみ》があるでしょう、御近所ならば私が一所に跟《つ》いて行《ゆ》くから、お前さん。」
杉は女《むすめ》の方をちょいと見たが、
「あなた何時《なんどき》だとお思いなさいます。私《わたくし》どもでは何でもありやしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。
あれあの通《とおり》、まだ戸外《おもて》はあんなでございますよ。」
少年は降りしきる雪の気勢《けはい》を身に感じて、途中を思い出したかまた悚《ぞっ》とした様子。座に言《ことば》が途絶えると漂渺《ひょうびょう》たる雪の広野《ひろの》を隔てて、里ある方《かた》に鳴くように、胸には描かれて、遥《はるか》に鶏の声が聞えるのである。
「お若さん、お泊め申しましょう、そして気を休めてからお帰りなさいまし。
私《わたくし》どもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。
お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。
御自分じゃちゃんとしてお在《いで》遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が確《たしか》じゃないようにお見受申します。
お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車は破《こわ》れたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、お託《ことづか》り下さいましたものも失《う》せますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷|下《くん》だりまで、そりゃ十年お傭《やとい》つけのような確《たしか》な若いものを二人でも三人でもお跟《つ》け申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、皆《みんな》が御迷惑を少しずつ分けて頂いて、貴下《あなた》のお身体《からだ》に恙《つつが》のないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしった験《ためし》のございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。
悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。
そしてお若さんもお炬燵《こた》へ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞお暖《あったか》なもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、
あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。」
「実はどういうんだか、今夜の雪は一片《ひとつ》でも身体《からだ》へ当るたびに、毒虫に螫《ささ》れるような気がするんです。」
と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸に纏《まと》われて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。
「ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さん宜《よ》うございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。」
お杉大明神様と震えつく相談と思《おもい》の外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、恍惚《うっとり》して眠そうである。
はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、呆気《あっけ》に取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、
「夜が明けると直《すぐ》お帰んなさるんなら厭!」
「そうすりゃ、」と杉は勢込み、突然《いきなり》上着の衣兜《かくし》の口を、しっかりとつかまえて、
「こうして、お引留めなさいましな。」
二十三
寝衣《ねまき》に着換えさしたのであろう、その上衣と短胴服《チョッキ》、などを一かかえに、少し衣紋《えもん》の乱れた咽喉《のど》のあたりへ押《おッ》つけて、胸に抱《いだ》いて、時の間《ま》に窶《やつれ》の見える頤《おとがい》を深く、俯向《うつむ》いた姿《なり》で、奥の方六畳の襖《ふすま》を開けて、お若はしょんぼりして出て来た。
襖の内には炬燵《こたつ》の裾《すそ》、屏風《びょうぶ》の端。
背《うしろ》片手で密《そ》とあとをしめて、三畳ばかり暗い処で姿が消えたが、静々と、十畳の広室《ひろま》に顕《あらわ》れると、二室《ふたま》越|二重《ふたえ》の襖、いずれも一枚開けたままで、玄関の傍《わき》なるそれも六畳、長火鉢にかんかんと、大形の台洋燈《だいランプ》がついてるので、あかりは青畳の上を辷《すべ》って、お若の冷たそうな、爪先《つまさき》が、そこにもちらちらと雪の散るよう、足袋は脱いでいた。
この灯《あかり》がさしたので、お若は半身を暗がりに、少し伸上るようにして透《すか》して見ると、火鉢には真鍮《しんちゅう》の大薬鑵《おおやかん》が懸《かか》って、も一ツ小鍋《こなべ》をかけたまま、お杉は行儀よく坐って、艶々《つやつや》しく結った円髷《まるまげ》の、その斑布《ばらふ》の櫛《くし》をまともに見せて、身動きもせずに仮睡《いねむり》をしている。
差覗《さしのぞ》いてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったり、抱えてたものを畳に落して、陰々として忍泣《しのびなき》の声がした。
しばらくすると、密《そっ》とまたその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際なる衣桁《いこう》の亙《わたし》。
お若は力なげに洋袴《ずぼん》をかけ、短胴服《チョッキ》をかけて、それから上衣を引《ひっ》かけたが、持ったまま手を放さず、じっと立って、再び密《そっ》と爪立《つまだ》つようにして、間《ま》を隔ってあたかも草双紙の挿絵を見るよう、衣《きぬ》の縞《しま》も見えて森閑と眠っている姿を覗くがごとくにして、立戻って、再三衣桁にかけた上衣の衣兜《かくし》。
しかもその左の方を、しっかと取ってお若は思わず、
「ああ、厭《いや》だっていうんだもの、」と絶入るように独言《ひとりごと》をした。あわれこうして、幾久しく契《ちぎり》を籠《こ》めよと、杉が、こうして幾久しく契を籠めよと!
お若は我を忘れたように、じっとおさえたまま身を震わして、しがみつくようにするトタンに、かちりと音して、爪先へ冷《ひや》りと中《あた》り、総身に針を刺されたように慄《ぞっ》と寒気を覚えたのを、と見ると一|挺《ちょう》の剃刀《かみそり》であった。
「まあ、恐《こわ》いことねえ。」
なお且つびっしょり濡れながら袂《たもと》の端に触れたのは、包んで五助が方《かた》へあつらえた時のままなる、見覚えのある反故《ほご》である。
お若はわなわなと身を震わしたが、左手《ゆんで》に取ってじっと見る間に、面《おもて》の色が颯《さっ》と変った。
「わッ。」
というと研屋《とぎや》の五助、喚《わめ》いて、むッくと弾《は》ね起きる。炬燵の向うにころりとせ、貧乏徳利を枕にして寝そべっていた鏡研《かがみとぎ》の作平、もやい蒲団《ぶとん》を弾反《はねかえ》されて寝惚声《ねぼげごえ》で、
「何じゃい、騒々しい。」
五助は服《きもの》はだけに大の字|形《なり》の名残《なごり》を見せて、蟇《ひきがえる》のような及腰《およびごし》、顔を突出して目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、障子越に紅梅屋敷の方《かた》を瞻《みつ》めながら、がたがたがたがた、
「大変だ、作平さん、大変だ、ひ、ひ、人殺し!」
「貧乏神が抜け出す前兆《しらせ》か、恐しく怯《おど》されるの、しっかりさっししっかりさっし。」といいながら、余り血相のけたたましさに、捨ておかれずこれも起きる。枕頭《まくらもと》には大皿に刺身のつま、猪口《ちょく》やら箸《はし》やら乱暴で。
「いや、お前《めえ》しっかりしてくれ、大変だ、どうも恐しい祟《たたり》だぜ、一方《ひとかた》ならねえ執念だ。」
化粧の名残
二十四
「とうとうお前《めえ》、旗本の遊女《おいらん》が惚《ほ》れた男の血筋を、一人紅梅屋敷へ引込んだ、同一《おなじ》理窟で、お若さんが、さ、さ、先刻《さっき》取り上げられた剃刀《かみそり》でやっぱり、お前、とても身分違いで思《おもい》が叶《かな》わぬとッて、そ、その男を殺すというのだい。今行水を遣《つか》ってら、」
「何をいわっしゃる、ははははは、風邪を引くぞ、うむ、夢じゃわ夢じゃわ。」
「はて、しかし夢か、」とぼんやりして腕を組んだが、
「待てよ、こうだによってと、誰か先刻《さっき》ここの前へ来て二上屋の寮を聞いたものはねえか。」
「おお、」
作平も膝を叩いた。
「そういやあある。お前《めえ》は酔っぱらってぐうぐうじゃ、何かまじまじとして私《わし》あ寐《ね》られん、一時《いっとき》半ばかり前に、恐しく風が吹いた中で、確《たしか》に聞いた、しかも少《わか》い男の声よ。」
「それだそれだ、まさしくそれだ、や、飛んだこッた。
お前《めえ》、何でも遊女《おいらん》に剃刀を授かって、お若さんが、殺してしまうと、身だしなみのためか、行水を、お前、行水ッて湯殿でお前、小桶《こおけ》に沸《わき》ざましの薬鑵《やかん》の湯を打《ぶ》ちまけて、お前、惜気もなく、肌を脱ぐと、懐にあった剃刀を啣《くわ》えたと思いねえ。硝子戸《がらすど》の外から覗《のぞ》いてた、私《わし》が方を仰向《あおむ》いての、仰向くとその拍子に、がッくり抜けた島田の根を、邪慳《じゃけん》に引《ひっ》つかんだ、顔色《かおつき》ッたら、先刻《さっき》見た幽霊にそッくりだあ、きゃあッともいおうじゃあねえか、だからお前、疾《はや》く行って留めねえと。」
「そして男を殺すとでもいうたかい、」
「いや、私《わし》が夢はお前《めえ》の夢、ええ、小じれッてえ。何でもお前が紅梅屋敷を教えたからだ。今思やうつつだろうか、晩方しかも今日|研立《とぎたて》の、お若さんの剃刀を取られたから、気になって、気になって堪《たま》るめえ。
処へ夜が更けて、尋ねて行《ゆ》くものがあるから、おかしいぜ、此奴《こいつ》、贔屓《ひいき》の田之助に怪我でもあっちゃあならねえと、直ぐにあとをつけて行《ゆ》くつもりだっけ、例の臆病《おくびょう》だから叶わねえ、不性《ぶしょう》をいうお前を、引張出《ひっぱりだ》し
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