て、夢にも二人づれよ。」
「やれやれ御苦労千万。」
「それから戸外《おもて》へ出ると雪はもう留《や》んでいた、寮の前へ行《ゆ》くとひっそりかんよ。人騒せなと、思ったけれど、あやまる分と、声をかけて、戸を叩いたけれど返事がねえ。
いよいよ変だと思うから大声で喚《わめ》いてドンドンやったが、成るほど夢か。叩くと音がしねえ、思うように声が出ねえ。我ながら向う河岸の渡船《わたしぶね》を呼んでるようだから、構わず開けて入ろうとしたが掛金がっちりだ。
どこか開《あ》く処があるめえかと、ぐるぐる寮の周囲《まわり》を廻る内に、湯殿の窓へあかりがさすわ。
はて変だわえ、今時分と、そこへ行って覗《のぞ》いた時、お若さんが寝乱れ姿で薬鑵を提げて出て来たあ。とまず安心をして凄《すご》いように美しい顔を見ると、目を泣腫《なきは》らしています、ね。どうしたかと思う内に、鹿《か》の子の見覚えある扱《しごき》一ツ、背後《うしろ》へ縮緬《ちりめん》の羽織を引振《ひっぷる》って脱いでな、褄《つま》を取って流《ながし》へ出て、その薬鑵の湯を打《ぶ》ちまけると、むっとこう霧のように湯気が立ったい、小棚から石鹸を出して手拭《てぬぐい》を突込《つっこ》んで、うつむけになって顔を洗うのだ。ぐらぐらとお前その時から島田の根がぬけていたろうじゃねえか。
それですっぱりと顔を拭《ふ》いてよ、そこでまた一安心をさせながら、何と、それから丸々ッちい両肌を脱いだんだ、それだけでも悚《ぞっ》とするのに、考えて見りゃちっと変だけれど、胸の処に剃刀が、それがお前《めえ》、
(五助さん、これでしょう、)と晩方|遊女《おいらん》が遣《や》った図にそっくりだ。はっと思うトタンに背向《うしろむき》になって仰向けに、そうよ、上口《あがりぐち》の方にかかった、姿見を見た。すると髪がざらざらと崩れたというもんだ、姿見に映った顔だぜ、その顔がまた遊女《おいらん》そのままだから、キャッといったい。」
二十五
されば五助が夢に見たのは、欽之助が不思議の因縁で、雪の夜《よ》に、お若が紅梅の寮に宿ったについての、委《くわ》しい順序ではなく、遊女の霊が、見棄てられたその恋人の血筋の者を、二上屋の女《むすめ》に殺させると叫んだのも、覚際《さめぎわ》にフト刺戟された想像に留《とど》まったのであるが、しかしそれは不幸にも事実であった。宵におびやかされた名残《なごり》とばかり、さまでには思わなかった作平も、まさしく少《わか》い声の男に、寮の道を教えたので、すてもおかず、ともかくもと大急ぎで、出掛ける拍子に、棒を小腋《こわき》に引きそばめた臆病《おくびょう》ものの可笑《おかし》さよ。
戸外《おもて》へ出ると、もう先刻《さっき》から雪の降る底に雲の行交《ゆきか》う中に、薄く隠れ、鮮かに顕《あらわ》れていたのがすっかり月の夜《よ》に変った。火の番の最後の鉄棒《かなぼう》遠く響いて廓《くるわ》の春の有明なり。
出合頭《であいがしら》に人が一人通ったので、やにわに棒を突立てたけれども、何、それは怪しいものにあらず、
「お早うがすな。」と澄《すま》して土手の方へ行った。
積んだ薪《たきぎ》の小口さえ、雪まじりに見える角の炭屋の路地を入ると、幽《かすか》にそれかと思う足あとが、心ばかり飛々《とびとび》に凹《くぼ》んでいるので、まず顔を見合せながら進んで門口《かどぐち》へ行《ゆ》くと、内は寂《しん》としていた。
これさえ夢のごときに、胸を轟《とどろ》かせながら、試みに叩いたが、小塚原《こつかッぱら》あたりでは狐の声とや怪しまんと思わるるまで、如月《きさらぎ》の雪の残月に、カンカンと響いたけれども、返事がない。
猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中を潜《くぐ》ると、向うにきらきら水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思うと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄くおよそ人の脊丈ばかり湯気が立っていた。
これにぎょッとして五助、作平、湯殿の下へ駆けつけた時はもう喘《あえ》いでいた。逡巡《しりごみ》をする五助に入交《いれかわ》って作平、突然《いきなり》手を懸けると、誰《た》が忘れたか戸締《とじまり》がないので、硝子窓《がらすまど》をあけて跨《また》いで入ると、雪あかりの上、月がさすので、明かに見えた真鍮《しんちゆう》の大薬鑵。蓋《ふた》と別々になって、うつむけに引《ひっ》くりかえって、濡手拭《ぬれてぬぐい》を桶《おけ》の中、湯は沢山にはなかったと思われ、乾き切って霜のような流《ながし》が、網を投げた形にびっしょりであった。
上口から躍込むと、あしのあとが、板の間の濡れたのを踏んで、肝を冷しながら、明《あかり》を目的《めあて》に駆けつけると、洋燈《ランプ》は少し暗くしてあったが、お杉は端然《ちゃんと》坐ったまま、その髷《まげ》、その櫛《くし》、その姿で、小鍋をかけたまま凍ったもののごとし。
ただいつの間にか、先刻《さっき》欽之助が脱いだままで置いて寝に行った、結城《ゆうき》の半纏《はんてん》を被《き》せかけてあった。とお杉はこれをいって今もさめざめと泣くのである。
五助、作平は左右より、焦《いら》って二ツ三ツ背中をくらわすと、杉はアッといって、我に返ると同時に、
「おいらんが、遊女《おいらん》が、」と切なそうにいった。
半纏はお若が心優しく、いまわの際にも勦《いたわ》ってその時かけて行ったのであろう。
後にお杉はうつつながら、お若が目前《まのあたり》に湯を取りに来たことも、しかもまくり手して重そうに持って湯殿の方《かた》へ行ったことも、知っていたが、これよりさき朦朧《もうろう》として雪ぢらしの部屋着を被《き》た、品の可《い》い、脊の高い、見馴《みな》れぬ遊女《おいらん》が、寮の内を、あっちこっち、幾たびとなくお若の身に前後して、お杉が自分で立とうとすると、屹《きっ》と睨《にら》まれて身動きが出来ないのであったと謂《い》う。
とこういうべき暇《いとま》あらず、我に復《かえ》るとお杉も太《いた》くお若の身を憂慮《きづか》っていたので、飛立つようにして三人奥の室《ま》へ飛込んだが、噫《ああ》。
既に遅矣《おそし》、雪の姿も、紅梅も、狼藉《ろうぜき》として韓紅《からくれない》。
狂気のごとくお杉が抱き上げた時、お若はまだ呼吸《いき》があったが、血の滴る剃刀を握ったまま、
「済みませんね、済みませんね。」と二声いったばかり、これはただ皮を切った位であったけれども暁を待たず。
男は深疵《ふかで》だったけれども気が確《たしか》で、いま駆《かけ》つけた者を見ると、
「お前方、助けておくれ、大事な体だ。」
といったので、五助作平、腰を抜いた。
この事実は、翌早朝、金杉の方から裏へ廻って、寮の木戸へつけて、同一《おなじ》枕に死骸を引取って行った馬車と共によく秘密が守られた。
しかし馬車で乗《のり》つけたのは、昨夜《ゆうべ》伊予紋へ、少将の夫人の使《つかい》をした、橘《たちばな》という女教師と、一名の医学士であった。
その診察に因って救うべからずと決した時、次の室《ま》に畏《かしこま》っていた、二上屋藤三郎すなわちお若の養父から捧げられたお若の遺書《かきおき》がある。
橘は取って披見した後に、枕頭《まくらもと》に進んで、声を曇らせながら判然《はっきり》と読んで聞かせた。
この意味は、人の想像とちっとも違《たが》わぬ。
その時まで残念だ、と呼吸《いき》の下でいって、いい続けて、時々|歯噛《はがみ》をしていた少年は、耳を澄《すま》して、聞き果てると、しばらくうっとりして、早や死の色の宿ったる蒼白《そうはく》な面《おもて》を和《やわら》げながら、手真似《てまね》をすること三度ばかり。
医学士が頷《うなず》いたので、橘が筆をあてがうと、わずかに枕を擡《もた》げ、天地|紅《べに》の半|切《きれ》に、薄墨のあわれ水茎の蹟《あと》、にじり書《がき》の端に、わか※[#「参らせ候」のくずし字、519−15]《まいらせそろ》とある上へ、少し大きく、佳《い》い手で脇屋欽之助つま、と記して安かに目を瞑《ねむ》った。
一座粛然。
作平は啜泣《すすりなき》をしながら、
「おめでてえな。」
五助が握拳《にぎりこぶし》を膝に置いて、
「お若さん、喜びねえ。」
[#地から1字上げ]明治三十四(一九〇一)年一月
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年5月10日作成
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