分ってるが、叔母さんと来た日にゃあ、若い者が芳原へ入れば、そこで生命《いのち》がなくなるとばかり信じてるんだ。
その人に甘やかされて、子のようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は知っていても廓は恐しい処とばかり思ってるし、叔母の気象も知ってるんだけれども、どうです、いやしくも飲もうといって、少《わか》い豪傑が手放《てばなし》で揃ってる、しかも艶《えん》なのが、まわりをちらちらする処で、御意見の鏡とは何事だ。
そうして懐へ入れて持って帰れと来た日にゃあ、私は人魂《ひとだま》を押《おッ》つけられたように気が滅入《めい》った。
しかもお使番が女教師の、おまけに大の基督教《キリストきょう》信者と来ては助からんねえ。」
打微笑《うちほほえ》み、
「相済まんがどうぞ宅《うち》の方へお届けを、といって平にあやまると、使《つかい》の婦人が、私も主義は違っております。かようなものは信じませんが、貴君《あなた》を心《しん》から思召していらっしゃる方の志は通すもんです。私もその御深切を感じて、喜んで参りました位です、こういうお使は生れてからはじめてです、と謂《い》った。こりゃ誰だって、全くそう。」
十九
「しかし土手下で雪に道を遮られて帰る途《みち》さえ分らなくなった時思出して、ああ、あれを頂いて持っていたら、こんな出来事が無かったのかも知れない。考えて見ればいくら叔母だって、わざわざ伊予紋まで鏡を持《もた》して寄越《よこ》すってことは容易でない。それを持して寄越したのも何かの前兆、私が受取らないで女の先生を帰したのも、腕車《くるま》の破《こわ》れたのも、車夫に間違えられたのも、来よう筈《はず》のない、芳原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、悚《ぞっ》としたんだね。
もっとも、その時だって、天窓《あたま》からけなして受けなかったのじゃあない、懐へでも入れば受取ったんだけれども、」
我が胸のあたりをさしのぞくがごとくにして、
「こんな扮装《いでたち》だから困ったろうじゃありませんか。
叔母には受取ったということに繕って、密《そっ》と貴女《あなた》から四ツ谷の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、少《わか》い夜会結《やかいむすび》のその先生は、不心服なようだッけ、それでは、腕車で直ぐ、お宅の方へ、と謂って帰っちまったんですよ。
あとは大飲《おおのみ》。
何しろ土手下で目が覚めたという始末なんですから。
それからね。
何でも来た方へさえ引返《ひっかえ》せば芳原へ入るだけの憂慮《きづかい》は無いと思って、とぼとぼ遣《や》って来ると向い風で。
右手に大溝《おおどぶ》があって、雪を被《かつ》いで小家《こいえ》が並んで、そして三階|造《づくり》の大建物の裏と見えて、ぼんやり明《あかり》のついてるのが見えてね、刎橋《はねばし》が幾つも幾つも、まるで卯《う》の花|縅《おどし》の鎧《よろい》の袖を、こう、」
借着の半纏《はんてん》の袂《たもと》を引いて。
「裏返したように溝《どぶ》を前にして家の屋根より高く引上げてあったんだ。」
それも物珍しいから、むやむやの胸の中にも、傍見《わきみ》がてら、二ツ三ツ四ツ五足に一ツくらいを数えながら、靴も沈むばかり積った路を、一足々々踏分けて、欽之助が田町の方へ向って来ると、鉄漿溝《おはぐろどぶ》が折曲って、切れようという処に、一ツだけ、その溝の色を白く裁切《たちき》って刎橋の架《かか》ったままのがあった。
「そこの処に婦人《おんな》が一|人《にん》立ってました、や、路を聞こう、声を懸けようと思う時、
近づく人に白鷺《しらさぎ》の驚き立つよう。
前途《ゆくて》へすたすたと歩行《ある》き出したので、何だか気がさしてこっちでも立停《たちどま》ると、劇《はげ》しく雪の降り来る中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ引返《ひっかえ》して来て、またするすると向うへ走る。
続いて歩行《ある》き出すと、向直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立停るという工合、それが三度目には擦違って、婦人《おんな》は刎橋の処で。
私は歩行《ある》き越して入違いに、今度は振返って見るようになったんだ。
そうするとその婦人《おんな》がこう彳《たたず》んだきり、うつむいて、さも思案に暮れたという風、しょんぼりとして哀《あわれ》さったらなかったから。
私は二足ばかり引返《ひっかえ》した。
何か一人では仕兼ねるようなことがあるのであろう、そんな時には差支えのない人に、力になって欲しかろう。自分を見て遁《に》げないものなら、どんな秘密を持っていようと、声をかけて、構うまいと思ってね。
実は何、こっちだって味方が欲《ほし》い。またどんな都合で腕車の相談が出来ないものでも無いとも考えたから。
お前さんどうしたんですッて。」
「まあ、御深切に、」と、話に聞惚《ききと》れたお若は、不意に口へ出した、心の声。
「傍《そば》へ寄って見ると、案の定、跣足《はだし》で居る、実に乱次《しどけ》ない風で、長襦袢《ながじゅばん》に扱帯《しごき》をしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が判然《はっきり》見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、勤人《つとめにん》だ。
脊の高いね、恐しいほど品の好《い》い遊女《おいらん》だったッけ。」
二十
「その婦人《おんな》に頼まれたんです。姉さん、」と謂いかけて、美しい顔をまともに屹《きっ》と女《むすめ》に向けた。
お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、大呼吸《おおいき》をつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。
「誰?」
「へい。」と、ただまじまじする。
「姉さんに、その遊女《おいらん》が今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、同一《おなじ》御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、朋友《ともだち》にも知れてはならず、新造《しんぞ》などにさとられては大変なので、昼から間《ま》を見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
ちょうど今夜は、内証《ないしょ》に大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも寐込《ねこ》んだのを機《しお》にぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ遠退《とおの》いた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。
寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえば直《じき》に知れますが、あれ、あんなに犬が吠《ほ》えて、どうすることもならないから、生命《いのち》を助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬ廓《くるわ》のこと、一大事ででもあるようだから、直《じか》にことづかった品物があるんです。
ただ渡せば可《い》いか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。
その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、帰路《かえりみち》もそこだというもの。そのまま別れて遣《や》って来ると、先刻《さっき》尋ねました、路地の突当りになる通《とおり》の内に、一軒|灯《あかり》の見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その婦人《おんな》がまだ立っていて、こっちへ指《ゆびさし》をしたように見えたけれども、朧気《おぼろげ》でよくは分らないから、一番《ひとつ》、その灯《あかり》を幸《さいわい》。
路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、爺《じじい》の声で教えてくれた。
何、一々|委《くわ》しいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、この明《あかる》い灯《あかり》を見ると、何だか雪路《ゆきみち》のことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に婦人《おんな》ばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。
そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、」といって、無造作に肱《ひじ》を張って、左の胸に高く取った衣兜《かくし》の中へ手を入れた。――
固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を搦《から》めながら、少し仰向いて、考えるらしく銀《すず》のような目を細め、
「何だろうねえ、杉や。」
「さようでございます、」とばかり一大事の、生命《いのち》がけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客の言《ことば》を疑う色は無かったのである。
「待って下さい、」とこの時、また右の方の衣兜《かくし》を探って、小首を傾け、
「はてな、じゃあ外套《がいとう》の方だった、」と片膝立てたので。
杉、
「私が。」
「確か左の衣兜へ、」
と差俯《さしうつむ》いた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのを厭《いと》わず、大切に抱くようにして持って来た。
敷居の上へ斜《ななめ》に拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、慄《ぞっ》としたよう。
二十一
「可《よ》うございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。」
探しあぐんで、外套を押遣《おしや》って、ちと慌てたように広袖《どてら》を脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえて悄《しお》れてじっと考えた時、お若は鷹揚《おうよう》に些《さ》も意に介する処のないような、しかも情の籠《こも》った調子で、かえって慰めるように謂《い》った。
お杉は心も心ならず、憂慮《きづかわ》しげに少年の状《さま》を瞻《みまも》りながら、さすがにこの際|喙《くち》を容《い》れかねていたのであった。
此方《こなた》はますます当惑の色面《おもて》に顕《あらわ》れ、
「可《い》いじゃアありません、可《よ》かあない、可かあない、」
と自ら我身を詈《ののし》るごとく、
「落すなんて、そんな間のあるわけはないんだからねえ、頼んだ人は生命《いのち》にもかかわる。」と、早口にいってまた四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》した。
「一体どんなものでございます。」とお杉は少年に引添うて、渠《かれ》を庇《かば》うようにして言う。
「私も更《あらた》めちゃ見なかった、いいえ、実は見ようとも思わなかったような次第なんです。何でもこう紙につつんだ、細長いもので、受取った時少し重みがあったんだがね。」
お若はちょいと頷《うなず》いて、
「杉、」
「ええ、」
「瀬川さんの……ね、あれさ、」と呑込《のみこ》ませる。
「ええ、成程、貴下《あなた》、それじゃあ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったんですよ、あの、お頼まれなすった遊女《おいらん》は、脊の高い、品の可い、そして淋しい顔色《かおつき》の、ああ煩っているもんだからてっきり、そう!」
と勢《いきおい》よくそれにした。
「今夜までに返すからと言ったにゃあ言いましたけれども、何、少姐《ねえ》さんは返してもらうおつもりじゃございませんのに、やっと今こっちじゃあ思い出しました位ですもの。」
「何です、それは、」とやや顔の色を直して言った。口うらを聞けば金子《かね》らしい、それならばと思う今も衣兜の中なる、手尖《てさき》に触るるは袂落《たもとおとし》。修学のためにやがて独逸《ドイツ》に赴かんとする脇屋欽之助は、叔母に今は世になき陸軍少将|松島主税《まつしまちから》の令夫人を持って、ここに擲《なげう》って差支えのない金員あり。もって、余りに頼効《たのみがい》なき虚気《うつけ》の罪を、この佳人の前に購《あがな》い得て余りあるものとしたのである。
問われてお杉は引取って、
「ちっとばかりお金子です。」
欽之助は嬉しそうに、
「じゃ
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