で油断なり、万に一つも助かる生命《いのち》じゃあなかったろうに、御運かの。遊女《おいらん》は気がせいたか、少し狙《ねらい》がはずれた処へ、その胸に伏せて、うつむいていなすった、鏡で、かちりとその、剃刀の刃が留まったとの。
私《わし》はどちらがどうとも謂《い》わぬ。遊女《おいらん》の贔屓《ひいき》をするのじゃあないけれど、思詰めたほどの事なら、遂げさしてやりたかったわ、それだけ心得のある婦人《おんな》が、仕損じは、まあ、どうじゃ。」
「されば、」
「その代り返す手で、我が咽喉《のど》を刎《は》ね切った遊女《おいらん》の姿の見事さ!
口惜《くや》しい、口惜しい、可愛いこの人の顔を余所《よそ》の婦人《おんな》に見せるのは口惜しい! との、唇を噛《か》んだまま、それなりけり。
全く鏡を見なすった時に、はッと我に返って、もう悪所には来まいという、吃《きっ》とした心になったのじゃげな。
容子《ようす》で悟った遊女《おいらん》も目が高かった。男は煩悩の雲晴れて、はじめて拝む真如《しんにょ》の月かい。生命《いのち》の親なり智識なり、とそのまま頂かしった、鏡がそれじゃ。はて総《ふさ》つき錦の袋入はその筈《はず》じゃて、お家に取っては、宝じゃものを。
念を入れて仕上げてくれ、近々にその後室様が、実の児《こ》よりも可愛がっておいでなさる、甥御《おいご》が一方《ひとかた》。悪い茶も飲まずに、さる立派な学校を卒業なされた。そのお祝に、御教訓をかねてお遣物《つかいもの》になさるつもり、まずまあ早くいってみりゃ、油断が起って女狂《おんなぐるい》、つまり悪所入《あくしょばいり》などをしなさらぬようにというのじゃ。
作平頼む、と差配《おおや》さんが置いて行《ゆ》かれた。畏《かしこま》り奉るで、昨日《きのう》それが出来て、差配さんまで差出すと、直《すぐ》に麹町のお邸《やしき》とやらへ行《ゆ》かしった。
点火頃《ひともしごろ》に帰って来て、作、喜べと大枚三両。これはこれはと心《しん》から辞退をしたけれども、いや先方様《さきさま》でも大喜び、実は鏡についてその話のあったのは、御維新《ごいっしん》になって八年、霜月の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同一《おんなじ》、ちょうど昨日の話で今日、更《あらた》めてその甥御様に送る間にあった、ということで、研賃《とぎちん》には多かろうが、一杯飲んでくれと、こういうのじゃ。
頂きます頂きます、飲代《のみしろ》になら百両でも御辞退|仕《つかまつ》りまする儀ではござりませぬと、さあ飲んだ、飲んだ、昨夜《ゆうべ》一晩。
ウイか何かでなあ五助さん、考えて見ると成程な、その大家の旦那がすっかり改心をなされた、こりゃ至極じゃて。
お連合《つれあい》の今の後室が、忘れずに、大事にかけてござらっしゃる、お心懸《こころがけ》も天晴《あっぱれ》なり、来歴づきでお宝物にされた鏡はまた錦の袋入。こいつも可《い》いわい。その研手《とぎて》に私《わし》をつかまえた差配さんも気に入ったり、研いだ作平もまず可いわ。立派な身分になんなすった甥御も可《よ》し。戒《いましめ》のためと謂《い》うて、遣物にさっしゃる趣向も受けた。手間じゃない飲代にせいという文句も可しか、酒も可いが、五助さん。
その発端になった、旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊女《おいらん》の身になって御覧《ごろう》じろ、またこのくらいよくない話はあるまい。
迷《まよい》じゃ、迷は迷じゃが、自分の可愛い男の顔を、他《ほか》の婦人《おんな》に見せるのが厭《いや》さに、とてもとあきらめた処で、殺して死のうとまで思い詰めた、心はどうじゃい。
それを考えれば酒も咽喉《のど》へは通らぬのを、いやそうでない。魂魄《こんぱく》この土《ど》に留《とど》まって、浄閑寺にお参詣《まいり》をする私《わし》への礼心、無縁の信女達の総代に麹町の宝物を稲荷町までお遣わしで、私《わし》に一杯振舞うてくれる気、と、早や、手前勝手。飲みたいばかりの理窟をつけて、さて、煽《あお》るほどに、けるほどに、五助さん、どうだ。
私《わし》の顔色の悪いのは、お憚《はばか》りだけれど今日ばかりは貧乏のせいでない。三年目に一度という二日酔の上機嫌じゃ、ははは。」とさも快げに見えた。
夕空
十一
時に五助は反故紙《ほごがみ》を扱《しご》いて研《と》ぎ澄《すま》した剃刀《かみそり》に拭《ぬぐい》をかけたが、持直して掌《てのひら》へ。
折から夕暮の天《そら》暗く、筑波から出た雲が、早や屋根の上から大鷲《おおわし》の嘴《くちばし》のごとく田町の空を差覗《さしのぞ》いて、一しきり烈《はげ》しくなった往来《ゆきき》の人の姿は、ただ黒い影が行違《ゆきちが》い、入乱るるばかりになった。
この際|一際《ひときわ》色の濃く、鮮《あざや》かに見えたのは、屋根越に遠く見ゆる紅梅の花で、二上屋の寮の西向の硝子《がらす》窓へ、たらたらと流るるごとく、横雲の切目《きれめ》からとばかりの間、夕陽が映じたのである。
剃刀の刃は手許《てもと》の暗い中に、青光三寸、颯々《さつさつ》と音をなして、骨をも切るよう皮を辷《すべ》った。
「これだからな、自慢じゃあねえが悪くすると人ごろしの得物にならあ。ふむ、それが十九日か。」といって少し鬱《ふさ》ぐ。
「そこで久しぶりじゃ、私《わし》もちっと冷える気味でこちらへ無沙汰《ぶさた》をしたで、また心ゆかしに廓《くるわ》を一|廻《まわり》、それから例の箕《み》の輪《わ》へ行って、どうせ苔《こけ》の下じゃあろうけれど、ぶッつかり放題、そのお嬢さんの墓と思って挨拶をして来ようと、ぶらぶら内を出て来たが。
お極《きま》りでお前《まい》ン許《とこ》へお邪魔をすると、不思議な話じゃ。あと前《さき》はよく分らいでも、十九日とばかりで聞く耳が立ったての。
何じゃ知らぬが、日が違わぬから、こりゃものじゃ。
五助さん、お前《まい》の許にもそういうかかり合《あい》があるのなら、悪いことは謂《い》わぬ、お題目を唱えて進ぜなせえ。
つい話で遅くなった。やっとこさと、今日はもう箕の輪へだけ廻るとしよう。」と謂うだけのことを謂って、作平は早や腰を延《の》そうとする。
トタンにがらがらと腕車《くるま》が一台、目の前へ顕《あらわ》れて、人通《ひとどおり》の中を曵《ひ》いて通る時、地響《じひびき》がして土間ぐるみ五助の体《たい》はぶるぶると胴震《どうぶるい》。
「ほう、」といって、俯向《うつむ》いていたぼんやりの顔を上げると、目金をはずして、
「作平さん、お前は怨《うらみ》だぜ、そうでなくッてさえ、今日はお極《きま》りのお客様が無けりゃ可《い》いが、と朝から父親《おやじ》の精進日ぐらいな気がしているから、有体《ありてい》の処腹の中《うち》じゃお題目だ。
唱えて進ぜなせえは聞えたけれど、お前《めえ》、言種《いいぐさ》に事を欠いて、私《わし》が許《とこ》をかかり合《あい》は、大《おおき》に打てらあ。いや、もうてっきり疑いなし、毛頭違いなし、お旗本のお嬢さん、どうして堪《たま》るものか。話のようじゃあ念が残らねえでよ、七代までは祟《たた》ります、むむ祟るとも。
串戯《じょうだん》じゃあねえ、どの道何か怨《うらみ》のある遊女《おいらん》の幽霊とは思ったけれど、何楼《どこ》の何だか捕《つかま》えどこのねえ内はまだしも気休め。そう日が合って剃刀があって、当りがついちゃあ叶《かな》わねえ。
そうしてお前《めえ》、咽喉《のど》を突いたんだっていったじゃあねえか。」
「これから、これへ、」と作平は垢《あか》じみた細い皺《しわ》だらけの咽喉仏《のどぼとけ》を露出《むきだ》して、握拳《にぎりこぶし》で仕方を見せる。
五助も我知らず、ばくりと口を開《あ》いて、
「ああ、ああ、さぞ、血が出たろうな、血が、」
「そりゃ出たろうとも、たらたらたら、」と胸へ真直《まっすぐ》に棒を引く。
「うう、そして真赤《まっか》か。」
「黒味がちじゃ、鮪《まぐろ》の腸《わた》のようなのが、たらたらたら。」
「止《よ》しねえ、何だなお前《めえ》、それから口惜《くやし》いッて歯を噛《か》んで、」
「怨死《うらみじに》じゃの。こう髪を啣《くわ》えての、凄《すご》いような美しい遊女《おいらん》じゃとの、恐《こわ》いほど品の好《い》いのが、それが、お前こう。」と口を歪《ゆが》める。
「おお、おお、苦しいから白魚《しらお》のような手を掴《つか》み、足をぶるぶる。」と五助は自分で身悶《みもだえ》して、
「そしてお前《めえ》、死骸《しがい》を見たのか。」
「何を謂わっしゃる、私《わし》は話を聞いただけじゃ。遊女《おいらん》の名も知りはせぬが。」
五助は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ってホッと呼吸《いき》、
「何の事だ、まあ、おどかしなさんない。」
十二
作平も苦笑い、
「だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。」
「目に見えるようだ。」
「私《わし》もやっぱり。」
「見えるか、ええ?」
「まずの。」
「何もそう幽霊に親類があるように落着いていてくれるこたあねえ、これが同一《おなじ》でも、おばさんに雪責にされて死んだとでもいう脆弱《かよわ》い遊女《おいらん》のなら、五助も男だ。こうまでは驚かねえが、旗本のお嬢さんで、手が利いて、中間《ちゅうげん》を一人もんどり打たせたと聞いちゃあ身動きがならねえ。
作平さん、こうなりゃお前《めえ》が対手《あいて》だ、放しッこはねえぜ。
一升買うから、後生だからお前今夜は泊り込《こみ》で、炬燵《こたつ》で附合ってくんねえ。一体ならお勝さんが休もうという日なんだけれど、限って出てしまったのも容易でねえ。
そうかといって、宿場で厄介になろうという年紀《とし》じゃあなし、無茶に廓《くるわ》へ入るかい、かえって敵に生捉《いけど》られるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈心だから堪《たま》るめえじゃねえか、恐しい。名代《みょうだい》部屋の天井から忽然《こつねん》として剃刀が天降《あまくだ》ります、生命《いのち》にかかわるからの。よ、隣のは筋が可《い》いぜ、はんぺんの煮込を御厄介になって、別に厚切な鮪《まぐろ》を取っておかあ、船頭、馬士《うまかた》だ、お前とまた昔話でもはじめるから、」と目金に恥じず悄《しょ》げたりけり。
作平が悦喜《えっき》斜《ななめ》ならず、嬉涙《うれしなみだ》より真先《まっさき》に水鼻を啜《すす》って、
「話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお輿《みこし》を据えては例のお花主《とくい》に相済まぬて。」
「それを言うなというに。無縁塚をお花主《とくい》だなぞと、とかく魔の物を知己《ちかづき》にするから悪いや、で、どうする。」
「もう遅いから廓|廻《まわり》は見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。」
「むむ、それもそうさの。私《わっし》も信心をすみが、お前《めえ》もよく拝んで御免|蒙《こうむ》って来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一|走《はしり》が可《い》いぜ。とても独《ひとり》じゃ遣切《やりき》れねえ、荷物は確《たしか》に預ったい。」
「何か私《わし》も旨《うめ》え乾物《ひもの》など見付けて提げて来よう、待っていさっせえ。」と作平はてくてく出かけて、
「こんなに人通《ひとどおり》があるじゃないかい。」
「うんや、ここいらを歩行《ある》くのに怨霊《おんりょう》を得脱《とくだつ》させそうな頼母《たのも》しい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨が留《や》むようだ。」
作平は空を仰いで、
「すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは、」
五助|慌《あわただ》しく。
「白いものか、禁物々々。」
点灯頃
十三
「はい、はい、はい、誰方《どなた》だい。」
作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の行《ゆ》くさきも薄暗いが、
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