ながらお怠け遊ばす、婆《ばばあ》どんの居た内はまだ稼ぐ気もあったもんだが、もう叶《かな》わねえ。
 人間色気と食気が無くなっちゃあ働けねえ、飲《のみ》けで稼ぐという奴《やつ》あ、これが少ねえもんだよ、なあ、お勝さん、」と振向いて呼んでみたが、
「もうお出懸けだ、いや、よく老実《まめ》に廻ることだ。はははは作平さん、まあ、話しなせえ、誰も居ねえ、何ならこっちへ上って炬燵《こたつ》に当ってよ、その障子を開けりゃ可《い》い、はらんばいになって休んで行《ゆ》きねえ。」
「そうもしてはいられぬがの、通りがかりにあれじゃ、お前さんの話が耳に入《い》って、少し附かぬことを聞くようじゃけれど、今のその剃刀《かみそり》の失《う》せるという日は、確か十九日とかいわしった、」
「むむ、十九日十九日、」と、気乗《きのり》がしたように重ね返事、ふと心付いた事あって、
「そうだ、待ちなせえ、今日は十九日と、」
 五助は身を捻《ひね》って、心覚《こころおぼえ》、後《うしろ》ざまに棚なる小箱の上から、取下《とりおろ》した分厚な一|綴《てつ》の註文帳。
 膝の上で、びたりと二つに割って開け、ばらばらと小口を返して、指の尖《さき》でずッと一わたり、目金で見通すと、
「そうそうそう、」といって仰向《あおむ》いて、掌《たなそこ》で帳面をたたくこと二三度す。
 作平もしょぼしょぼとある目で覗《のぞ》きながら、
「日切《ひぎれ》の仕事かい。」
「何、急ぐのじゃあねえけれど、今日中に一|挺《ちょう》私《わし》が気で研いで進ぜたいのがあったのよ、つい話にかまけて忘りょうとしたい、まあ、」
「それは邪魔をして気の毒な。」
「飛んでもねえ、緩《ゆっく》りしてくんねえ。何さ、実はお前《めえ》、聞いていなすったか、その今日だ。この十九日にゃあ一日仕事を休むんだが、休むについてよ、こう水を更《あらた》めて、砥石《といし》を洗って、ここで一挺|念入《ねんいり》というのがあるのさ、」
「気に入ったあつらえかの。」
「むむ、今そこへ行《ゆ》きなすった、あの二上屋の寮が、」
 と向うの路地を指《ゆびさ》した。
「あ、あ、あれだ、紅梅が見えるだろう、あすこにそのお若さんてって十八になるのが居て、何だ、旦那の大の秘蔵女《ひぞうっこ》さ。
 そりゃ見せたいような容色《きりょう》だぜ、寮は近頃出来たんで、やっぱり女郎屋の内証《ないしょ》で育ったもんだが、人は氏よりというけれど、作平さん、そうばかりじゃあねえね。
 お蔭で命を助かった位な施《ほどこし》を受けてるのがいくらもあら。
 藤三郎|父親《ちゃん》がまた夢中になって可愛がるだ。
 少姐《ねえさん》の袖に縋《すが》りゃ、抱えられてる妓衆《こどもしゅう》の証文も、その場で煙《けむ》になりかねない勢《いきおい》だけれど、そこが方便、内に居るお勝なんざ、よく知ってていうけれど、女郎衆なんという者は、ハテ凡人にゃあ分らねえわ。お若さんの容色《きりょう》が佳《い》いから天窓《あたま》を下げるのが口惜《くやし》いとよ。
 私《あっし》あ鐚一文《びたいちもん》世話になったんじゃあねえけれど、そんなこんなでお前《めえ》、その少姐《ねえさん》が大の贔屓《ひいき》。
 どうだい、こう聞きゃあお前《めえ》だって贔屓にしざあなるめえ。死んだ田之助そッくりだあな。」

       八

「ところで御註文を格別の扱《あつかい》だ。今日だけは他《ほか》の剃刀を研がねえからね、仕事と謂《い》や、内じゃあ商売人のものばかりというもんだに因って、一番不浄|除《よけ》の別火《べつび》にして、お若さんのを研ごうと思って。
 うっかりしていたが、一挺来ていたというもんだ、いつでもこうさ。
 一体十九日の紛失一件は、どうも廓《くるわ》にこだわってるに違《ちげ》えねえ。祟《たた》るのは妓衆《こどもし》なんだからね、少姐《ねえさん》なんざ、遊女《おいらん》じゃあなし、しかも廓内《くるわうち》に居るんじゃあねえから構うめえと思ってよ。
 まあ何にしろ変な訳さ。今に見ねえ、今日もきっと誰方《どなた》か取りにござる。いや作平さん、狐千年を経《ふ》れば怪をなす、私《わっし》が剃刀研《かみそりとぎ》なんざ、商売往来にも目立たねえ古物《こぶつ》だからね、こんな場所がらじゃアあるし、魔がさすと見えます。
 そういやあ作平さん、お前さんの鏡研《かがみとぎ》も時代なものさ、お互《たげえ》に久しいものだが、どうだ、御無事かね。二階から白井権八の顔でもうつりませんかい。」
 その箱と盥《たらい》とを荷《にな》った、痩《やせ》さらぼいたる作平は、蓋《けだ》し江戸市中|世渡《よわたり》ぐさに俤《おもかげ》を残した、鏡を研いで活業《なりわい》とする爺《じじい》であった。
 淋しげに頷《うなず》いて、
「ところがもし御同様じゃで、」
「御同様※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と五助は日脚を見て仕事に懸《かか》る気、寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。桶《おけ》の中で砥石《といし》を洗いながら、慌てたように謂《いい》返した。
「御同様は気がねえぜ、お前《めえ》の方にも曰《いわく》があるかい。」
「ある段か、お前さん。こういうては何じゃけれど、田町の剃刀研、私《わし》は広徳寺前を右へ寄って、稲荷町《いなりちょう》の鏡研、自分達が早や変化《へんげ》の類《たぐい》じゃ、へへへへへ。」と薄笑《うすわらい》。
「おやおや、汝《てめえ》から名乗る奴《やつ》もねえもんだ。」と、かっちり、つらつらと石を合せる。
「じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお位牌《いはい》の姿じゃわ、羅宇《らお》屋の方はまだ開《あ》けたのが出来たけれど、もう貍穴《まみあな》の狸、梅暮里の鰌《どじょう》などと同一《ひとつ》じゃて。その癖職人絵合せの一枚|刷《ずり》にゃ、烏帽子素袍《えぼしすおう》を着て出ようというのじゃ。」
「それだけになお罪が重いわ。」
「まんざらその祟《たたり》に因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。」
「何か剃刀の失《う》せるに就いてか、」
「つい四五日前、町内の差配人《おおや》さんが、前の溝川の橋を渡って、蔀《しとみ》を下《おろ》した薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、店賃《たなちん》の御催促。万年町の縁の下へ引越《ひっこ》すにも、尨犬《むくいぬ》に渡《わたり》をつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ仕誼《しぎ》、一刻も猶予ならぬ立退《たちの》けでござりましょう。その儀ならば後《のち》とは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますと謂《い》うたらば。
 差配《おおや》さん苦笑《にがわらい》をして、狸爺め、濁酒《どぶろく》に喰《くら》い酔って、千鳥足で帰って来たとて、桟橋《さんばし》を踏外そうという風かい。溝店《どぶだな》のお祖師様と兄弟分だ、少《わか》い内から泥濘《ぬかぬみ》へ踏込んだ験《ためし》のない己《おれ》だ、と、手前《てめえ》太平楽を並べる癖に。
 御意でござります。
 どこまで始末に了《お》えねえか数《すう》が知れねえ。可《い》いや、地尻の番太と手前《てめえ》とは、己《おら》が芥子坊主《けしぼうず》の時分から居てつきの厄介者だ。当《あて》もねえのに、毎日研物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにゃあ箕輪《みのわ》の浄閑寺へ廻って、以前|御贔屓《ごひいき》になりましたと、遊女《おいらん》の無縁の塔婆に挨拶《あいさつ》をして来やあがる。そんな奴も差配《さはい》内になくッちゃあお祭の時幅が利かねえ。忰《せがれ》は稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにやあ歩行《ある》かねえッての、むむ。」と大得意。この時五助はお若の剃刀をぴったりと砥《と》にあてたが、哄然《こうぜん》として、
「気に入った気に入った、それも贔屓の仁左衛門だい。」


     作平物語

       九

「ところで聞かっしゃい、差配《おおや》さまの謂《い》うのには、作平、一番《ひとつ》念入《ねんいり》に遣《や》ってくれ、その代り儲かるぜ、十二分のお手当だと、膨らんだ懐中《ふところ》から、朱総《しゅぶさ》つき、錦《にしき》の袋入というのを一面の。
 何でも差配《おおや》さんがお出入《でいり》の、麹町《こうじまち》辺の御大家の鏡じゃそうな。
 さあここじゃよ。十九日に因縁づきは。憚《はばか》ってお名前は出さぬが、と差配《おおや》さんが謂わっしゃる。
 その御大家は今|寡婦様《ごけさま》じゃ、まず御後室というのかい。ところでその旦那様というのはしかるべきお侍、もうその頃は金モオルの軍人というのじゃ。
 鹿児島戦争の時に大したお手柄があって、馬車に乗らっしゃるほどな御身分になんなされたとの。その方が少《わか》い時よ。
 誰もこの迷《まよい》ばかりは免れぬわ。やっぱりそれこちとらがお花主《とくい》の方に深いのが一人出来て、雨の夜《よ》、雪の夜もじゃ。とどの詰《つま》りがの、床の山で行倒れ、そのまんまずッと引取られたいより他《ほか》に、何の望《のぞみ》もなくなったというものかい。居続けの朝のことだとの。
 遊女《おいらん》は自分が薄着なことも、髪のこわれたのも気がつかずに、しみじみと情人《いろ》の顔じゃ。窶《やつ》れりゃ窶れるほど、嬉しいような男振《おとこぶり》じゃが、大層|髭《ひげ》が伸びていた。
 鏡台の前に坐らせて、嗽《うがい》茶碗で濡《ぬら》した手を、男の顔へこう懸けながら、背後《うしろ》へ廻った、とまあ思わっせえ。
 遊女《おいらん》は、胸にものがあってしたことか。わざと八寸の延鏡《のべかがみ》が鏡|立《たて》に据えてあったが、男は映る顔に目も放さず。
 うしろから肩越に気高い顔を一所にうつして、遊女《おいらん》が死のうという気じゃ。
 あなた、私の心が見えましょう、と覗込《のぞきこ》んだ時に、ああ、堪忍しておくんなさい、とその鏡を取って俯向《うつむ》けにして、男がぴったりと自分の胸へ押着《おッつ》けたと。
 何を他人がましい、あなた、と肩につかまった女の手を、背後《うしろ》ざまに弾《は》ねたので、うんにゃ、愚痴なようだがお前には怨《うらみ》がある。母様《おっかさん》によく肖《に》た顔を、ここで見るのは申訳がないといって、がっくり俯向いて男泣《おとこなき》。
 遊女《おいらん》はこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという痩《や》せた指で、剃刀《かみそり》を握ったまま、顔の色をかえて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突然《いきなり》逆手《さかて》に持直して、何と、背後《うしろ》からものもいわずに、男の咽喉《のど》へ突込《つっこ》んだ。」
 五助は剃刀の平《ひら》を指で圧《おさ》えたまま、ひょいと手を留めた。
「おお、危《あぶね》え。」
「それにの、刃物を刺すといや、針さしへ針をさすことより心得ておらぬような婦人《おんな》じゃあなかった。俺《おら》あ遊女《おいらん》の名と坂の名はついぞ覚えたことは無《ね》えッて、差配《おおや》さんは忘れたと謂《い》わッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、歴《れっき》とした旗本のお嬢さんで、お邸《やしき》は番町辺。
 何でも徳川様|瓦解《がかい》の時分に、父様《おとっさん》の方は上野へ入《へえ》んなすって、お前、お嬢さんが可哀《かわい》そうにお邸の前へ茣蓙《ござ》を敷いて、蒔絵《まきえ》の重箱だの、お雛様《ひなさま》だの、錦絵《にしきえ》だのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。
 それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐり合《あい》、という深い交情《なか》であったげな。
 牛込見附で、仲間《ちゅうげん》の乱暴者を一|人《にん》、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという手利《てきき》なお嬢さんじや、廓《くるわ》でも一時《ひとしきり》四辺《あたり》を払ったというのが、思い込んで剃刀で突いた奴《やつ》。」
「ほい。」

       十

「男はまる
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