都《みやこ》という人のを新造衆《しんぞしゅう》が取りに来て、」
五助は振向いて背後《うしろ》の棚、件《くだん》の屋台の蔭ではあり、間狭《まぜま》なり、日は当らず、剃刀ばかりで陰気なのを、目金越に見て厭《いや》な顔。
四
「と、ここから出そうとすると無かろうね。探したが探したがさあ知れねえ。とうとう平あやまりのこっち凹《へこ》み、先方様《さきさま》むくれとなったんだが、しかも何と、その前の晩気を着けて見ておいたんじゃアあるまいか。
持って来たのが十八日、取りに来たのが二十日の朝、検《しら》べたのが前の晩なら、何でも十九日の夜中だね、希代なのは。」
「へい、」と言って、若い者は巻煙草《まきたばこ》を口から取る。
五助は前屈《まえかが》みに目金を寄せ、
「ほら、日が合ってましょう。それから気を着けると、いつかも江戸町のお喜乃《きの》さんが、やっぱり例の紛失で、ブツブツいって帰《けえ》ったッけ、翌日《あくるひ》の晩方、わざわざやって来て、
(どうしたわけだか、鏡台の上に、)とこうだ。私許《うち》へ預って、取りに来て失《う》せたものが、鏡台の上にあるは、いかがでござい。
鏡台の上はまだしもさ、悪くすると十九日には障子の桟《さん》なんぞに乗っかってる内があるッさ。
浮舟さんが燗部屋《かんべや》に下《さが》っていて、七日《なぬか》ばかり腰が立たねえでさ、夏のこッた、湯へ入《へえ》っちゃあ不可《いけね》えと固く留められていたのを、悪汗《わるあせ》が酷《ひど》いといって、中引《なかびけ》過ぎに密《そ》ッと這出《はいだ》して行って湯殿口でざっくり膝を切って、それが許《もと》で亡くなったのも、お前《めえ》、剃刀がそこに落ッこちていたんだそうさ。これが十九日、去年の八月知ってるだろう。
その日も一挺紛失さ、しかしそりゃ浮舟さんの楼《うち》のじゃあねえ、確か喜怒川《きぬがわ》の緑さんのだ、どこへどう間違って行《ゆ》くのだか知れねえけれども、厭《いや》じゃあねえか、恐しい。
引《ひっ》くるめて謂《い》や、こっちも一挺なくなって、廓内《くるわうち》じゃあきっと何楼《どこ》かで一挺だけ多くなる勘定だね。御入用のお客様はどなただか早や知らねえけれど、何でも私《わっし》が研澄《とぎすま》したのをお持ちなさると見えるて、御念の入った。
溌《ぱっ》としちゃあ、お客にまで気を悪くさせるから伏せてはあろうが、お前さんだ、今日は剃刀を扱《つか》わねえことを知っていそうなもんだと思うが、楼《うち》でも気がつかねえでいるのかしら。」
「ええ! ほんとうかい、お前《めえ》とは妙に懇意だが、実は昨今だから、……へい?」と顔の筋を動かして、眉をしかめ、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ると、この地色の無い若い者は、思わず手に持った箱を、ばったり下に置く。
「ええ、もし、」
「はい。」と目金を向ける、気を打った捨吉も斉《ひと》しく振向くと、皺嗄《しゃが》れた声で、
「お前さん、御免なさいまし。」
敷居際に蹲《つくば》った捨吉が、肩のあたりに千草色の古股引《ふるももひき》、垢《あか》じみた尻切半纏《しりきりばんてん》、よれよれの三尺、胞衣《えな》かと怪《あやし》まれる帽を冠《かぶ》って、手拭《てぬぐい》を首に巻き、引出し附のがたがた箱と、海鼠形《なまこなり》の小盥《こだらい》、もう一ツ小盥を累《かさ》ねたのを両方振分にして天秤《てんびん》で担いだ、六十ばかりの親仁《おやじ》、瘠《やせ》さらぼい、枯木に目と鼻とのついた姿で、さもさも寒そう。
捨吉は袖を交わして、ひやりとした風、つっけんどんなもの謂《いい》で、
「何だ、」
「はい、もしお寒いこッてござります。」
「北風《ならい》のせいだな、こちとらの知ったこッちゃあねえよ。」
「へへへへへ、」と鼻の尖《さき》で寂《さみ》しげなる笑《えみ》を洩《もら》し、
「もし、唯今《ただいま》のお話は、たしか幾日《いくか》だとかおっしゃいましたね。」
五
五助は目金越に、親仁の顔を瞻《みまも》っていたが、
「やあ作平《さくべい》さんか、」といって、その太わくの面道具《おもてどうぐ》を耳から捻《ねじ》り取るよう、※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》ぎはなして膝の上。口をこすって、またたいて、
「飛んだ、まあお珍しい、」と知った中。捨吉間が悪かったものと見え、
「作平さん、かね。」と低声《こごえ》で口の裡《うち》。
折から、からからと後歯《あとば》の跫音《あしおと》、裏口ではたと留《や》んで、
「おや、また寝そべってるよ、図々しい、」
叱言《こごと》は犬か、盗人猫《ぬすっとねこ》か、勝手口の戸をあけて、ぴッしゃりと蓮葉《はすは》にしめたが、浅間だから直《じき》にもう鉄瓶をかちりといわせて、障子の内に女の気勢《けはい》。
「唯今。」
「帰《けえ》んなすったかい、」
「お勝さん?」と捨吉は中腰に伸上りながら、
「もうそんな時分かな。」
「いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、」
という時、二枚|立《だて》のその障子の引手の破目《やぶれめ》から仇々《あだあだ》しい目が二ツ、頬のあたりがほの見えた。蓋《けだ》し昼の間《うち》寐《ね》るだけに一間の半《なかば》を借り受けて、情事《いろごと》で工面の悪い、荷物なしの新造《しんぞ》が、京町あたりから路地づたいに今頃戻って来るとのこと。
「少し立込んだもんですからね、」
「いや、御苦労様、これから緩《ゆっく》りとおひけに相成《あいなり》ます?」
「ところが不可《いけ》ないの、手が足りなくッて二度の勤《つとめ》と相成ります。」
「お出懸《でかけ》か、」と五助。
「ええ、困るんですよ、昨夜《ゆうべ》もまるッきり寐ないんですもの、身体《からだ》中ぞくぞくして、どうも寒いじゃアありませんか、お婆さん堪《たま》らないから、もう一枚下へ着込んで行《ゆ》きましょうと思って、おお、寒い。」といってまた鉄瓶をがたりと遣《や》る。
さらぬだに震えそうな作平、
「何てえ寒いこッてございましょう、ついぞ覚えませぬ。」
「はッくしょい、ほう、」と呼吸《いき》を吹いて、堪《たま》りかねたらしい捨吉続けざまに、
「はッくしょい! ああ、」といって眉を顰《ひそ》め、
「噂《うわさ》かな、恐しく手間が取れた、いや、何しろ三挺頂いて帰りましょう。薄気味は悪いけれど、名にし負う捨どんがお使者でさ、しかも身替《みがわり》を立てる間《うち》奥の一間で長ッ尻《ちり》と来ていらあ。手ぶらでも帰られまい。五助さん、ともかくも貰って行《ゆ》くよ。途中で自然《おのず》からこの蓋《ふた》が取れて手が切れるなんざ、おっと禁句、」とこの際、障子の内へ聞かせたさに、捨吉相方なしの台辞《せりふ》あり。
五助はまめだって、
「よくそう謂《い》いなせえよ、」
「十九日かね、」と内からいう。
「ええ、御存じ、」といいながら、捨吉腰を伸《のば》してずいと立った。
「希代だわねえ。」
「やっぱり何でございますかい、」と作平はこれから話す気、振《ふり》かえて、荷を下《おろ》し、屋台へ天秤を立てかける。
捨吉はぐいと三挺、懐へ突込みそうにしたが、じっと見て、
「おッと十九日。」
という処へ、荷車が二台、浴衣の洗濯を堆《うずたか》く積んで、小僧が三人寒い顔をしながら、日向《ひなた》をのッしりと曵《ひ》いて通る。向うの路地の角なる、小さな薪《まき》屋の店前《みせさき》に、炭団《たどん》を乾かした背後《うしろ》から、子守がひょいと出て、ばたばたと駆けて行《ゆ》く。大音寺前あたりで飴《あめ》屋の囃子《はやし》。
紅梅屋敷
六
その荷車と子守の行違《ゆきちが》ったあとに、何にもない真赤《まっか》な田町の細路へ、捨吉がぬいと出る。
途端にちりりんと鈴《りん》の音、袖に擦合うばかりの処へ、自転車一輛、またたきする間もあらせず、
「危い、」と声かけてまた一輛、あッと退《すさ》ると、耳許《みみもと》へ再び、ちりちり!
土手の方から颯《さっ》と来たが、都合三輛か、それ或《あるい》は三|羽《びき》か、三|疋《びき》か、燕《つばめ》か、兎か、見分けもつかず、波の揺れるようにたちまち見えなくなった。
棒立ちになって、捨吉|茫然《ぼうぜん》と見送りながら、
「何だ、一文も無《ね》え癖に、」
「汝《てめえ》じゃアあるまいし。」
「や、」
「どうした。」
「へい、」
「近頃はどうだ、ちったあ当りでもついたか、汝《てめえ》、桐島のお消《けし》に大分執心だというじゃあないか。」
「どういたしまして、」
「少しも御遠慮には及ばぬよ。」
「いえ、先方《さき》へでございます、旦那《だんな》にじゃあございません。」
「そうか、いや意気地《いくじ》の無い奴《やつ》だ。」と腹蔵の無い高笑《たかわらい》。少禿天窓《すこはげあたま》てらてらと、色づきの好《い》い顔容《かおかたち》、年配は五十五六、結城《ゆうき》の襲衣《かさね》に八反の平絎《ひらぐけ》、棒縞《ぼうじま》の綿入半纏《わたいればんてん》をぞろりと羽織って、白縮緬《しろちりめん》の襟巻をした、この旦那と呼ばれたのは、二上屋藤三郎《ふたかみやとうさぶろう》という遊女屋の亭主で、廓《くるわ》内の名望家、当時見番の取締《とりしまり》を勤めているのが、今|向《むこう》の路地の奥からぶらぶらと出たのであった。
界隈《かいわい》の者が呼んで紅梅屋敷という、二上屋の寮は、新築して実にその路地の突当《つきあたり》、通《とおり》の長屋並《ならび》の屋敷越に遠くちらちらとある紅《くれない》は、早や咲初《さきそ》めた莟《つぼみ》である。
捨吉は更《あらた》めて、腰を屈《かが》めて揉手《もみで》をし、
「旦那御一所に。」
「おお、これからの、」
という処へ、萌黄《もえぎ》裏の紺看板に二の字を抜いた、切立《きったて》の半被《はっぴ》、そればかりは威勢が可《い》いが、かれこれ七十にもなろうという、十筋右衛門《とすじうえもん》が向顱巻《むこうはちまき》。
今一|人《にん》、唐縮緬《とうちりめん》の帯をお太鼓に結んで、人柄な高島田、風呂敷包を小脇に抱えて、後前《あとさき》に寮の方から路地口へ。
捨吉はこれを見て、
「や、爺《とっ》さん、こりゃ姉さん、」
「ああ、今日はちっとの、内証《ないしょ》に芝居者のお客があっての、実は寮の方で一杯と思って、下拵《したごしらえ》に来てみると、困るじゃあねえか、お前《めえ》。」
「へい、へい成程。」
「お若が例のやんちゃんをはじめての、騒々しいから厭《いや》だと謂《い》うわ。じゃあ一晩だけ店の方へ行っていろと謂ったけれど、それをうむという奴かい。また眩暈《めまい》をされたり、虫でも発《おこ》されちゃあ叶《かな》わねえ。その上お前、ここいらの者に似合わねえ、俳優《やくしゃ》というと目の敵《かたき》にして嫌うから、そこで何だ。客は向《むこう》へ廻すことにして、部屋の方の手伝に爺やとこのお辻をな、」
「へい、へい、へい、成程、そりゃお前《めえ》さん方御苦労様。」
「はははは、別荘《おしもやしき》に穴籠《あなごもり》の爺《じじ》めが、土用干でございますてや。」
「お前さん、今日は。」とお辻というのが愛想の可《い》い。
藤三郎はそのまま土手の方へ行こうとして、フト研屋《とぎや》の店を覗込《のぞきこ》んで、
「よくお精が出るな。」
「いや、」作平と共に四人の方《かた》を見ていたのが、天窓《あたま》をひたり、
「お天気で結構でございます。」
「しかし寒いの。」と藤三郎は懐手で空を仰ぎ、輪|形《なり》にずッと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、
「筑波の方に雲が見えるぜ。」
七
「嘘あねえ。」
と五助はあとでまた額を撫《な》で、
「怠けちゃあ不可《いけな》いと謂《い》われた日にゃあ、これでちっとは文句のある処だけれど、お精が出ますとおっしゃられてみると、恐入るの門なりだ。
実際また我
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