お帰りなさいまし。
 私《わたくし》どもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。
 お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。
 御自分じゃちゃんとしてお在《いで》遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が確《たしか》じゃないようにお見受申します。
 お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車は破《こわ》れたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、お託《ことづか》り下さいましたものも失《う》せますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷|下《くん》だりまで、そりゃ十年お傭《やとい》つけのような確《たしか》な若いものを二人でも三人でもお跟《つ》け申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、皆《みんな》が御迷惑を少しずつ分けて頂いて、貴下《あなた》のお身体《からだ》に恙《つつが》のないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしった験《ためし》のございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。
 悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。
 そしてお若さんもお炬燵《こた》へ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞお暖《あったか》なもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、
 あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。」
「実はどういうんだか、今夜の雪は一片《ひとつ》でも身体《からだ》へ当るたびに、毒虫に螫《ささ》れるような気がするんです。」
 と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸に纏《まと》われて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。
「ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さん宜《よ》うございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。」
 お杉大明神様と震えつく相談と思《おもい》の外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、恍惚《うっとり》して眠そうである。
 はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、呆気《あっけ》に取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、
「夜が明けると直《すぐ》お帰んなさるんなら厭!」
「そうすりゃ、」と杉は勢込み、突然《いきなり》上着の衣兜《かくし》の口を、しっかりとつかまえて、
「こうして、お引留めなさいましな。」

       二十三

 寝衣《ねまき》に着換えさしたのであろう、その上衣と短胴服《チョッキ》、などを一かかえに、少し衣紋《えもん》の乱れた咽喉《のど》のあたりへ押《おッ》つけて、胸に抱《いだ》いて、時の間《ま》に窶《やつれ》の見える頤《おとがい》を深く、俯向《うつむ》いた姿《なり》で、奥の方六畳の襖《ふすま》を開けて、お若はしょんぼりして出て来た。
 襖の内には炬燵《こたつ》の裾《すそ》、屏風《びょうぶ》の端。
 背《うしろ》片手で密《そ》とあとをしめて、三畳ばかり暗い処で姿が消えたが、静々と、十畳の広室《ひろま》に顕《あらわ》れると、二室《ふたま》越|二重《ふたえ》の襖、いずれも一枚開けたままで、玄関の傍《わき》なるそれも六畳、長火鉢にかんかんと、大形の台洋燈《だいランプ》がついてるので、あかりは青畳の上を辷《すべ》って、お若の冷たそうな、爪先《つまさき》が、そこにもちらちらと雪の散るよう、足袋は脱いでいた。
 この灯《あかり》がさしたので、お若は半身を暗がりに、少し伸上るようにして透《すか》して見ると、火鉢には真鍮《しんちゅう》の大薬鑵《おおやかん》が懸《かか》って、も一ツ小鍋《こなべ》をかけたまま、お杉は行儀よく坐って、艶々《つやつや》しく結った円髷《まるまげ》の、その斑布《ばらふ》の櫛《くし》をまともに見せて、身動きもせずに仮睡《いねむり》をしている。
 差覗《さしのぞ》いてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったり、抱えてたものを畳に落して、陰々として忍泣《しのびなき》の声がした。
 しばらくすると、密《そっ》とまたその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際なる衣桁《いこう》の亙《わたし》。
 お若は力なげに洋袴《ずぼん》
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