遊女《おいらん》がお帰しなすったんですねえ、酷《ひど》いッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうも飛《とん》でもない、火をお吹きなすっちゃあ不可《いけ》ません、飛でもない。」
 と什麼《そもさん》こうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥の嘴《くちばし》にでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉を顰《ひそ》めて、澄《すま》して、雪のような頬を火鉢のふちに押《おし》つけながら、
「消炭を取っておいで、」
「唯今《ただいま》何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少姐《ねえ》さんのお部屋でついお心易立《こころやすだて》にお炬燵《こた》を拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、」
「つい眠くなったじゃあないか、」とお若は莞爾《にっこり》する。
「それでも今夜のように、ふらふら睡気《ねむけ》のさすったらないのでございますもの。」
「お極《きまり》だわ。」
「可哀相《かわいそう》に、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、現《うつつ》でございましたの。」
「私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方が可《よ》うございますわ。構やしません、そんな遊女《おいらん》は一晩の内に凍砂糖《こおりざとう》になってしまいます。」と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人を廓《くるわ》なる母屋の客と思込んだものであろう。
「私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。」
「お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、」
「別に隠しなんぞするものか。
 しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気が咎《とが》めたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりや渡《わたり》に舟なんで、どうも凍えそうで堪《たま》らなかった。」
 と語るに、ものもいいにくそうな初心な風采《ふうさい》、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔を瞻《みまも》りながら、
「そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くお澗《かん》をつけましょうか。」
「召《めし》あがるかしら、」とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。
「どうして、酒と聞くと身震《みぶるい》がするんだ、どうも、」
 と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、彼方《かなた》に目の覚めるようなお若の姿とを屹《きっ》と見ながら、明《あかる》い洋燈《ランプ》と、今青い炎《ひ》を上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、
「私を変だと思うでしょう。」

       十七

「自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もう可《い》いんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?」
「はい、さようでございます。」とお若はあでやかに打微笑《うちほほえ》む。
「ええと、ここを出て突当りに家《うち》がありますね、そこを通って左へ行《ゆ》くと、こう坂になっていましょうか、そう、そこから直《じき》に大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、」とお若の方に向直った。
「姉さんに届けるものがあるんです、」といいながらお杉に向い、
「確か廓《くるわ》へ入ろうという土手の手前に、こっちから行《ゆ》くと坂が一ツ。」
 打頷《うちうなず》けば頷いて、
「もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、腕車《くるま》が支《つか》えたのでやっと目が覚めたんだ。」
 この日|脇屋欽之助《わさやきんのすけ》が独逸行《ドイツゆき》を送る宴会があった。
「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の目的《めあて》にされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。
 もっとも待たしておく筈《はず》の腕車はあったんだけれども、一体内は四《よ》ツ谷《や》の方、あれから下谷《したや》へ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする発奮《はずみ》に、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。」
「まあ、お危うございます、」
「ちっと擦剥《すりむ》いた位、怪我《けが》も何もしないけれども。
 それだもんだから、辻車に飛乗《とびのり》をして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。
 お話のその土手へ上《あが》ろうという坂だ。しっくり支《つか》えたから、はじめて気がついてね、見ると驚
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