いたろうじゃあないか。いつの間にか四辺《あたり》は真白《まっしろ》だし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空を劃《くぎ》って電燈が映ってるし、今度|行《ゆ》こうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。
 それで、御本人はまさしく日本の腕車《くるま》に乗ってさ、笑っちゃあ不可《いけな》い車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った泥除《どろよけ》をおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、御串戯《ごじょうだん》もんだ、と言うんです。
 四ツ谷へ帰るんだッてね、少し焦《じ》れ込むと、まあ宜《よ》うがすッさ、お聞きよ。
 馬鹿にしちゃ可《い》かん、と言って、間違《まちがい》の原因《もと》を尋ねたら、何も朋友《ともだち》が引張《ひっぱ》って来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああ遣《や》ってくれ、といって乗ったそうだ。
 遣ってくれと言うから、廓《なか》へ曳《ひ》いて来たのに不思議はありますまいと澄《すま》したもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いから宅《うち》まで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。
 頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂を上《あが》って四ツ谷くんだりまでこの雪に行《ゆ》かれるもんじゃあない。
 箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと河岸《かし》の方とかで泊り込《こみ》という寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、突然《いきなり》靴だから飛び下りたさ。」


     二人使者

       十八

 欽之助は茶一碗、霊水《かたちみず》のごとくぐっと干して、
「お恥かしいわけだけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分らない。芳原はそこに見えるというのに、車一台なし、人ッ子も通らない。聞くものはなし、一体何時頃か知らんと、時計を出そうとすると、おかしい、掏《す》られたのか、落したのか、鎖ぐるみなくなっている。時間さえ分らなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。
 心細いッたらないのだもの、おまけに目もあてられない吹雪と来て、酔覚《えいざめ》じゃあり、寒さは寒し、四ツ谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて迷児《まいご》になったんだから、こりゃ自分の身体《からだ》はどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、恐《こわ》くなったんです。
 ただ車夫《くるまや》に間違えられたばかりなら、雪だっても今|帷子《かたびら》を着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。
 気になるのは、昼間|腕車《くるま》が壊れていましょう、それに、伊予紋で座が定《きま》って、杯の遣取《やりとり》が二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。
 灯《あかり》がついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭の歩《あゆみ》を越して玄関へ出て見ると、叔母の宅《うち》に世話になって、従妹《いとこ》の書物《ほん》なんか教えている婦人が来て立っていました。
 先刻《さっき》奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もうお出かけになりましたあとだそうです。お約束のものが昨日《きのう》出来上って参りましたものですから、それを貴下《あなた》にお贈り申したいとおっしゃって、お持ちなすったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなすって、あの児《こ》のことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうでもない、お朋達《ともだち》におつき合で、他《ほか》ならば可《い》いが、芳原へでも行《ゆ》くと危い。お出かけさきへ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。
 何でも広徳寺前|辺《あたり》に居る、名人の研屋《とぎや》が研ぎましたそうでございますからッてね、紫の袱紗包《ふくさづつみ》から、錦《にしき》の袋に入った、八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡すだろうじゃありませんか。」と少年は一|呼吸《いき》ついた。お若と女中は、耳も放さず目も放さず。
「鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこの廓《くるわ》で道楽をして、命にも障る処を、そのお庇《かげ》で人らしくなったッてね。
 私も決して良い処とは思わないけれども、大抵様子は
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