細く聞ゆるごとく、
「不浄|除《よ》けの別火だとさ、ほほほほほ、」
 わずかに解いた唇に、艶々《つやつや》と鉄漿《かね》を含んでいる、幻はかえって目前《まのあたり》。
「わッ」というと真俯向《まうつむき》、五助は人心地あることか。
「横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しに廓《くるわ》が見えるぜ。」
とこの際|戸外《おもて》を暢気《のんき》なもの。
「や! 雪だ、雪だ。」と呼《よば》わったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、と哄《どッ》とばかりになだれて通る。


     雪の門

       十四

 宵に一旦《いったん》ちらちらと降ったのは、垣の結目《ゆいめ》、板戸の端、廂《ひさし》、往来《ゆきき》の人の頬、鬢《びん》の毛、帽子の鍔《つば》などに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木の梢《こずえ》も、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、煙草《たばこ》屋の店の灯《ともしび》、おでんの行燈《あんどう》、車夫の提灯《かんばん》、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれが群《むらが》って、真白《まっしろ》な灯取虫《ひとりむし》がばたばた羽をあてる風情であった。
 やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄|駒下駄《こまげた》の痕《あと》も、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかに凹《くぼみ》を残すのみ、車の轍《わだち》も遥々《はるばる》と長き一条の名残《なごり》となった。
 おうおうと遠近《おちこち》に呼交《よびかわ》す人声も早や聞えず、辻に彳《たたず》んで半身に雪を被《かぶ》りながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒く顕《あらわ》れた巡査の姿、研屋《とぎや》の店から八九間さきなる軒下に引込《ひっこ》んで、三島神社の辺《あたり》から大音寺前の通《とおり》、田町にかけてただ一白。
 折から颯《さっ》と渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の上面《うわづら》を撫《な》でてあたかも篩《ふるい》をかけたよう、一様に平《たいら》にならして、人の歩行《ある》いた路ともなく、夜の色さえ埋《うず》み消したが、見る見る垣を亙《わた》り、軒を吹き、廂を掠《かす》め、梢を鳴らし、一陣たちまち虚蒼《あそぞら》に拡がって、ざっという音|烈《はげ》しく、丸雪は小雪を誘って、八方
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