けれど、まだいずくにも灯が入らず、森《しん》として三味線《さみせん》の音《ね》もしない。ただ遥に空《くう》を衝《つ》いて、雲のその夜《よ》は真黒《まっくろ》な中に、暗緑色の燈《ともしび》の陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突立《つった》ったようなのは、二上屋の常燈である。
 五助は半身水口から突出して立っていたが、頻《しきり》に後《うしろ》見らるるような気がして堪《たま》らず、柄杓をぴっしゃり。
「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりを透《すか》すと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸外《おもて》の人どおり。
 やがて旧《もと》の仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。
「おや、変だぜ。」
 五助は片膝立て、中腰になり、四ツに這《は》いなどして掻探《かいさぐ》り、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、
「はてな、先刻《さっき》ああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」
 正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の女《むすめ》お若の剃刀《かみそり》を、どこへか置忘れてしまったのであった。
「懐中《ふところ》へは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。
 しばらくして、
「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を裾《すそ》にして、扱帯《しごき》の上あたりで褄《つま》を取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の鮮《あざや》かな鼻筋の通った、真白《まっしろ》な頬に鬢《びん》の毛の乱れたのまで、判然《はっきり》と見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨居《かもい》にも支《つか》えそうなのが、じっと此方《こなた》を見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。
「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、肉《しし》つき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた蒼《あお》ざめた掌《てのひら》に、毒蛇の鱗《うろこ》の輝くような一|挺《ちょう》の剃刀を挟んでいて、
「これでしょう、」
 五助はがッと耳が鳴《なっ》た、頭に響く声も幽《かすか》に、山あり川あり野の末に、糸より
前へ 次へ
全44ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング