三
海、また湖へ、信心の投網《とあみ》を颯《さっ》と打って、水に光るもの、輝くものの、仏像、名剣を得たと言っても、売れない前《さき》には、その日一日の日当がどうなった、米は両につき三升、というのだから、かくのごとき杢若が番太郎小屋にただぼうとして活《い》きているだけでは、世の中が納まらぬ。
入費は、町中持合いとした処で、半ば白痴《はくち》で――たといそれが、実家《さと》と言う時、魔の魂が入替るとは言え――半ば狂人《きちがい》であるものを、肝心火の元の用心は何とする。……炭団《たどん》、埋火《うずみび》、榾《ほだ》、柴《しば》を焚《た》いて煙は揚げずとも、大切な事である。
方便な事には、杢若は切凧《きれだこ》の一件で、山に実家《さと》を持って以来、いまだかつて火食をしない。多くは果物を餌《えさ》とする。松葉を噛《か》めば、椎《しい》なんぞ葉までも頬張る。瓜《うり》の皮、西瓜《すいか》の種も差支えぬ。桃、栗、柿、大得意で、烏や鳶《とび》は、むしゃむしゃと裂いて鱠《なます》だし、蝸牛虫《まいまいつぶろ》やなめくじは刺身に扱う。春は若草、薺《なずな》、茅花《つばな》、つくつくしのお精進……蕪《かぶ》を噛《かじ》る。牛蒡《ごぼう》、人参は縦に啣《くわ》える。
この、秋はまたいつも、食通大得意、というものは、木の実時なり、実り頃、実家の土産の雉《きじ》、山鳥、小雀《こがら》、山雀《やまがら》、四十雀《しじゅうから》、色どりの色羽を、ばらばらと辻に撒《ま》き、廂《ひさし》に散らす。ただ、魚類に至っては、金魚も目高も決して食わぬ。
最も得意なのは、も一つ茸《きのこ》で、名も知らぬ、可恐《おそろ》しい、故郷《ふるさと》の峰谷の、蓬々《おどろおどろ》しい名の無い菌《くさびら》も、皮づつみの餡《あん》ころ餅ぼたぼたと覆《こぼ》すがごとく、袂《たもと》に襟に溢《あふ》れさして、山野の珍味に厭《あ》かせたまえる殿様が、これにばかりは、露のようなよだれを垂《たら》し、
「牛肉のひれや、人間の娘より、柔々《やわやわ》として膏《あぶら》が滴る……甘味《うまい》ぞのッ。」
は凄《すさま》じい。
が、かく菌《きのこ》を嗜《たしな》むせいだろうと人は言った、まだ杢若に不思議なのは、日南《ひなた》では、影形が薄ぼやけて、陰では、汚れたどろどろの衣《きもの》の縞目《しまめ》も判明《はっきり》する。……委《くわ》しく言えば、昼は影法師に肖《に》ていて、夜は明《あきら》かなのであった。
さて、店を並べた、山茱萸《やまぐみ》、山葡萄《やまぶどう》のごときは、この老鋪《しにせ》には余り資本が掛《かか》らな過ぎて、恐らくお銭《あし》になるまいと考えたらしい。で、精一杯に売るものは。
「何だい、こりゃ!」
「美しい衣服《べべ》じゃがい。」
氏子は呆《あき》れもしない顔して、これは買いもせず、貰いもしないで、隣の木の実に小遣《こづかい》を出して、枝を蔓《つる》を提げるのを、じろじろと流眄《ながしめ》して、世に伯楽なし矣《い》、とソレ青天井を向いて、えへらえへらと嘲笑《あざわら》う……
その笑《わらい》が、日南《ひなた》に居て、蜘蛛の巣の影になるから、鳥が嘴《くちばし》を開けたか、猫が欠伸《あくび》をしたように、人間離れをして、笑の意味をなさないで、ぱくりとなる……
というもので、筵《むしろ》を並べて、笠を被《かぶ》って坐った、山茱萸、山葡萄の婦《おんな》どもが、件《くだん》のぼやけさ加減に何となく誘われて、この姿も、またどうやら太陽《ひ》の色に朧々《おぼろおぼろ》として見える。
蒼《あお》い空、薄雲よ。
人の形が、そうした霧の裡《なか》に薄いと、可怪《あやし》や、掠《かす》れて、明《あから》さまには見えない筈《はず》の、扱《しご》いて搦《から》めた縺《もつ》れ糸の、蜘蛛の囲《い》の幻影《まぼろし》が、幻影が。
真綿をスイと繰ったほどに判然と見えるのに、薄紅《うすべに》の蝶、浅葱《あさぎ》の蝶、青白い蝶、黄色な蝶、金糸銀糸や消え際の草葉螟蛉《くさばかげろう》、金亀虫《こがねむし》、蠅の、蒼蠅、赤蠅。
羽ばかり秋の蝉、蜩《ひぐらし》の身の経帷子《きょうかたびら》、いろいろの虫の死骸《しがい》ながら巣を引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひんむし》って来たらしい。それ等が艶々《つやつや》と色に出る。
あれ見よ、その蜘蛛の囲に、ちらちらと水銀の散った玉のような露がきらめく……
この空の晴れたのに。――
四
これには仔細《しさい》がある。
神の氏子のこの数々の町に、やがて、あやかしのあろうとてか――その年、秋のこの祭礼《まつり》に限って、見馴《みな》れない、商人《あきゅうど》が、妙な、異《かわ》ったものを売った。
宮の入口に、新しい石の鳥居の前に立った、白い幟《のぼり》の下に店を出して、そこに鬻《ひさ》ぐは何等のものぞ。
河豚《ふぐ》の皮の水鉄砲。
蘆《あし》の軸に、黒斑《くろぶち》の皮を小袋に巻いたのを、握って離すと、スポイト仕掛けで、衝《つッ》と水が迸《ほとばし》る。
鰒《ふぐ》は多し、また壮《さかん》に膳《ぜん》に上す国で、魚市は言うにも及ばず、市内到る処の魚屋の店に、春となると、この怪《あやし》い魚《うお》を鬻《ひさ》がない処はない。
が、おかしな売方、一頭々々《ひとつひとつ》を、あの鰭《ひれ》の黄ばんだ、黒斑なのを、ずぼんと裏返しに、どろりと脂ぎって、ぬらぬらと白い腹を仰向《あおむ》けて並べて置く。
もしただ二つ並ぼうものなら、切落して生々しい女の乳房だ。……しかも真中《まんなか》に、ズキリと庖丁目を入れた処が、パクリと赤黒い口を開《あ》いて、西施《せいし》の腹の裂目を曝《さら》す……
中から、ずるずると引出した、長々とある百腸《ひゃくひろ》を、巻かして、束《つか》ねて、ぬるぬると重ねて、白腸《しろわた》、黄腸《きわた》と称《とな》えて売る。……あまつさえ、目の赤い親仁《おやじ》や、襤褸半纏《ぼろばんてん》の漢等《おのこら》、俗に――云う腸《わた》拾いが、出刃庖丁を斜に構えて、この腸《はらわた》を切売する。
待て、我が食通のごときは、これに較ぶれば処女の膳であろう。
要するに、市、町の人は、挙《こぞ》って、手足のない、女の白い胴中《どうなか》を筒切《つつぎり》にして食うらしい。
その皮の水鉄砲。小児《こども》は争って買競《かいきそ》って、手の腥《なまぐさ》いのを厭《いと》いなく、参詣《さんけい》群集の隙《すき》を見ては、シュッ。
「打上げ!」
「流星!」
と花火に擬《まね》て、縦横《たてよこ》や十文字。
いや、隙どころか、件《くだん》の杢若をば侮《あなど》って、その蜘蛛の巣の店を打った。
白玉の露はこれである。
その露の鏤《ちりば》むばかり、蜘蛛の囲に色|籠《こ》めて、いで膚寒《はださむ》き夕《ゆうべ》となんぬ。山から颪《おろ》す風一陣。
はや篝火《かがりび》の夜にこそ。
五
笛も、太鼓も音《ね》を絶えて、ただ御手洗《みたらし》の水の音。寂《しん》としてその夜《よ》更け行く。この宮の境内に、階《きざはし》の方《かた》から、カタンカタン、三ツ四ツ七ツ足駄の歯の高響《たかひびき》。
脊丈のほども惟《おも》わるる、あの百日紅《さるすべり》の樹の枝に、真黒《まっくろ》な立烏帽子《たてえぼし》、鈍色《にぶいろ》に黄を交えた練衣《ねりぎぬ》に、水色のさしぬきした神官の姿一体。社殿の雪洞《ぼんぼり》も早や影の届かぬ、暗夜《やみ》の中に顕《あらわ》れたのが、やや屈《かが》みなりに腰を捻《ひね》って、その百日紅の梢《こずえ》を覗《のぞ》いた、霧に朦朧《もうろう》と火が映って、ほんのりと薄紅《うすくれない》の射《さ》したのは、そこに焚落《たきおと》した篝火《かがりび》の残余《なごり》である。
この明《あかり》で、白い襟、烏帽子の紐《ひも》の縹色《はないろ》なのがほのかに見える。渋紙した顔に黒痘痕《くろあばた》、塵《ちり》を飛ばしたようで、尖《とん》がった目の光、髪はげ、眉薄く、頬骨の張った、その顔容《かおかたち》を見ないでも、夜露ばかり雨のないのに、その高足駄の音で分る、本田|摂理《せつり》と申す、この宮の社司で……草履か高足駄の他《ほか》は、下駄を穿《は》かないお神官《かんぬし》。
小児《こども》が社殿に遊ぶ時、摺違《すれちが》って通っても、じろりと一睨《ひとにら》みをくれるばかり。威あって容易《たやす》く口を利かぬ。それを可恐《こわ》くは思わぬが、この社司の一子に、時丸と云うのがあって、おなじ悪戯盛《いたずらざかり》であるから、ある時、大勢が軍《いくさ》ごっこの、番に当って、一子時丸が馬になった、叱《しっ》! 騎《の》った奴《やつ》がある。……で、廻廊を這《は》った。
大喝一声、太鼓の皮の裂けた音して、
「無礼もの!」
社務所を虎のごとく猛然として顕《あらわ》れたのは摂理の大人《うし》で。
「動!」と喚《わめ》くと、一子時丸の襟首を、長袖のまま引掴《ひッつか》み、壇を倒《さかしま》に引落し、ずるずると広前を、石の大鉢の許《もと》に掴《つか》み去って、いきなり衣帯を剥《は》いで裸にすると、天窓《あたま》から柄杓《ひしゃく》で浴びせた。
「塩を持て、塩を持て。」
塩どころじゃない、百日紅の樹を前にした、社務所と別な住居《すまい》から、よちよち、臀《いしき》を横に振って、肥《ふと》った色白な大円髷《おおまるまげ》が、夢中で駈《か》けて来て、一子の水垢離《みずごり》を留めようとして、身を楯《たて》に逸《はや》るのを、仰向《あおむ》けに、ドンと蹴倒《けたお》いて、
「汚《けが》れものが、退《しさ》りおれ。――塩を持て、塩を持てい。」
いや、小児《こども》等は一すくみ。
あの顔一目で縮み上る……
が、大人《うし》に道徳というはそぐわぬ。博学深識の従《じゅ》七位、花咲く霧に烏帽子は、大宮人の風情がある。
「火を、ようしめせよ、燠《おき》が散るぞよ。」
と烏帽子を下向けに、その住居《すまい》へ声を懸けて、樹の下を出しなの時、
「雨はどうじゃ……ちと曇ったぞ。」と、密《そ》と、袖を捲《ま》きながら、紅白の旗のひらひらする、小松大松のあたりを見た。
「あの、大旗が濡れてはならぬが、降りもせまいかな。」
と半ば呟《つぶや》き呟き、颯《さっ》と巻袖の笏《しゃく》を上げつつ、とこう、石の鳥居の彼方《かなた》なる、高き帆柱のごとき旗棹《はたざお》の空を仰ぎながら、カタリカタリと足駄を踏んで、斜めに木の鳥居に近づくと、や! 鼻の提灯《ちょうちん》、真赤《まっか》な猿の面《つら》、飴屋《あめや》一軒、犬も居《お》らぬに、杢若が明《あきら》かに店を張って、暗がりに、のほんとしている。
馬鹿が拍手《かしわで》を拍《う》った。
「御前様《ごぜんさま》。」
「杢か。」
「ひひひひひ。」
「何をしておる。」
「少しも売れませんわい。」
「馬鹿が。」
と夜陰に、一つ洞穴《ほら》を抜けるような乾《から》びた声の大音で、
「何を売るや。」
「美しい衣服《べべ》だがのう。」
「何?」
暗《やみ》を見透かすようにすると、ものの静かさ、松の香が芬《ぷん》とする。
六
鼠色の石持《こくもち》、黒い袴《はかま》を穿《は》いた宮奴《みやっこ》が、百日紅《さるすべり》の下に影のごとく踞《うずく》まって、びしゃッびしゃッと、手桶《ておけ》を片手に、箒《ほうき》で水を打つのが見える、と……そこへ――
あれあれ何じゃ、ばばばばばば、と赤く、かなで書いた字が宙に出て、白い四角な燈《あかり》が通る、三箇の人影、六本の草鞋《わらじ》の脚。
燈《ともしび》一つに附着合《くッつきあ》って、スッと鳥居を潜《くぐ》って来たのは、三人|斉《ひと》しく山伏なり。白衣《びゃくえ》に白布の顱巻《はちまき》したが、面《おもて》こそは異形《いぎょう》なれ。丹塗《にぬり》の天狗に、緑青色《ろくしょういろ
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