茸の舞姫
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)杢《もく》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お宗旨|違《ちがい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひんむし》って
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一
「杢《もく》さん、これ、何《なあに》?……」
と小児《こども》が訊《き》くと、真赤《まっか》な鼻の頭《さき》を撫《な》でて、
「綺麗な衣服《べべ》だよう。」
これはまた余りに情《なさけ》ない。町内の杢若《もくわか》どのは、古筵《ふるむしろ》の両端へ、笹《ささ》の葉ぐるみ青竹を立てて、縄を渡したのに、幾つも蜘蛛《くも》の巣を引搦《ひっから》ませて、商売《あきない》をはじめた。まじまじと控えた、が、そうした鼻の頭《さき》の赤いのだからこそ可《よ》けれ、嘴《くちばし》の黒い烏だと、そのままの流灌頂《ながれかんちょう》。で、お宗旨|違《ちがい》の神社の境内、額の古びた木の鳥居の傍《かたわら》に、裕福な仕舞家《しもたや》の土蔵の羽目板を背後《うしろ》にして、秋の祭礼《まつり》に、日南《ひなた》に店を出している。
売るのであろう、商人《あきんど》と一所に、のほんと構えて、晴れた空の、薄い雲を見ているのだから。
飴《あめ》は、今でも埋火《うずみび》に鍋《なべ》を掛けて暖めながら、飴ん棒と云う麻殻《あさがら》の軸に巻いて売る、賑《にぎや》かな祭礼でも、寂《さ》びたもので、お市、豆捻《まめねじ》、薄荷糖《はっかとう》なぞは、お婆さんが白髪《しらが》に手抜《てぬぐい》を巻いて商う。何でも買いなの小父さんは、紺の筒袖を突張《つっぱ》らかして懐手の黙然《もくねん》たるのみ。景気の好《い》いのは、蜜垂《みつたらし》じゃ蜜垂じゃと、菖蒲団子《あやめだんご》の附焼を、はたはたと煽《あお》いで呼ばるる。……毎年顔も店も馴染《なじみ》の連中、場末から出る際商人《きわあきんど》。丹波鬼灯《たんばほおずき》、海酸漿《うみほおずき》は手水鉢《ちょうずばち》の傍《わき》、大きな百日紅《さるすべり》の樹の下に風船屋などと、よき所に陣を敷いたが、鳥居外のは、気まぐれに山から出て来た、もの売で。――
売るのは果もの類。桃は遅い。小さな梨、粒林檎《つぶりんご》、栗《くり》は生のまま……うでたのは、甘藷《さつまいも》とともに店が違う。……奥州辺とは事かわって、加越《かえつ》のあの辺に朱実《あけび》はほとんどない。ここに林のごとく売るものは、黒く紫な山葡萄《やまぶどう》、黄と青の山茱萸《やまぐみ》を、蔓《つる》のまま、枝のまま、その甘渋くて、且つ酸《すっぱ》き事、狸が咽《む》せて、兎が酔いそうな珍味である。
このおなじ店が、筵《むしろ》三枚、三軒ぶり。笠《かさ》被《き》た女が二人並んで、片端に頬被《ほおかぶ》りした馬士《まご》のような親仁《おやじ》が一人。で、一方の端《はじ》の所に、件《くだん》の杢若が、縄に蜘蛛の巣を懸けて罷出《まかりいで》た。
「これ、何さあ。」
「美しい衣服《べべ》じゃが買わんかね。」と鼻をひこつかす。
幾歳《いくつ》になる……杢の年紀《とし》が分らない。小児《こども》の時から大人のようで、大人になっても小児に斉《ひと》しい。彼は、元来、この町に、立派な玄関を磨いた医師《いしゃ》のうちの、書生兼小使、と云うが、それほどの用には立つまい、ただ大食いの食客《いそうろう》。
世間体にも、容体にも、痩《や》せても袴《はかま》とある処《ところ》を、毎々薄汚れた縞《しま》の前垂《まえだれ》を〆《し》めていたのは食溢《くいこぼ》しが激しいからで――この頃は人も死に、邸《やしき》も他《よそ》のものになった。その医師《いしゃ》というのは、町内の小児《こども》の記憶に、もう可なりの年輩だったが、色の白い、指の細く美しい人で、ひどく権高な、その癖|婦《おんな》のように、口を利くのが優しかった。……細君は、赭《あか》ら顔、横ぶとりの肩の広い大円髷《おおまるまげ》。眦《めじり》が下って、脂《あぶら》ぎった頬《ほお》へ、こう……いつでもばらばらとおくれ毛を下げていた。下婢《おさん》から成上ったとも言うし、妾《めかけ》を直したのだとも云う。実《まこと》の御新造《ごしんぞ》は、人づきあいはもとよりの事、門《かど》、背戸へ姿を見せず、座敷牢とまでもないが、奥まった処に籠切《こもりき》りの、長年の狂女であった。――で、赤鼻は、章魚《たこ》とも河童《かっぱ》ともつかぬ御難なのだから、待遇《あつかい》も態度《なりふり》も、河原の砂から拾って来たような体《てい》であったが、実は前妻のその狂女がもうけた、実子で、しかも長男で、この生れたて変なのが、やや育ってからも変なため、それを気にして気が狂った、御新造は、以前、国家老の娘とか、それは美しい人であったと言う……
ある秋の半ば、夕《ゆうべ》より、大雷雨のあとが暴風雨《あらし》になった、夜の四つ時十時過ぎと思う頃、凄《すさま》じい電光の中を、蜩《ひぐらし》が鳴くような、うらさみしい、冴《さ》えた、透《とお》る、女の声で、キイキイと笑うのが、あたかも樹の上、雲の中を伝うように大空に高く響いて、この町を二三度、四五たび、風に吹廻されて往来《ゆきき》した事がある……通魔《とおりま》がすると恐れて、老若、呼吸《いき》をひそめたが、あとで聞くと、その晩、斎木(医師の姓)の御新造が家《うち》を抜出し、町内を彷徨《さまよ》って、疲れ果てた身体《からだ》を、社《やしろ》の鳥居の柱に、黒髪を颯《さっ》と乱した衣《きぬ》は鱗《うろこ》の、膚《はだえ》の雪の、電光《いなびかり》に真蒼《まっさお》なのが、滝をなす雨に打たれつつ、怪しき魚《うお》のように身震《みぶるい》して跳ねたのを、追手《おって》が見つけて、医師《いしゃ》のその家へかつぎ込んだ。間もなく枢《ひつぎ》という四方|張《ばり》の俎《まないた》に載《の》せて焼かれてしまった。斎木の御新造は、人魚になった、あの暴風雨《あらし》は、北海の浜から、潮《うしお》が迎いに来たのだと言った――
その翌月、急病で斎木国手が亡くなった。あとは散々《ちりぢり》である。代診を養子に取立ててあったのが、成上りのその肥満女《ふとっちょ》と、家蔵《いえくら》を売って行方知れず、……下男下女、薬局の輩《ともがら》まで。勝手に掴《つか》み取りの、梟《ふくろう》に枯葉で散り散りばらばら。……薬臭い寂しい邸は、冬の日売家の札が貼《は》られた。寂《しん》とした暮方、……空地の水溜《みずたまり》を町の用心水《ようじんみず》にしてある掃溜《はきだめ》の芥棄場《ごみすてば》に、枯れた柳の夕霜に、赤い鼻を、薄ぼんやりと、提灯《ちょうちん》のごとくぶら下げて立っていたのは、屋根から落ちたか、杢若《もくわか》どの。……親は子に、杢介とも杢蔵とも名づけはしない。待て、御典医であった、彼のお祖父《じい》さんが選んだので、本名は杢之丞《もくのじょう》だそうである。
――時に、木の鳥居へ引返そう。
二
ここに、杢若がその怪しげなる蜘蛛《くも》の巣を拡げている、この鳥居の向うの隅、以前|医師《いしゃ》の邸の裏門のあった処に、むかし番太郎と言って、町内の走り使人《つかい》、斎《とき》、非時の振廻《ふれまわ》り、香奠《こうでん》がえしの配歩行《くばりある》き、秋の夜番、冬は雪|掻《かき》の手伝いなどした親仁《おやじ》が住んだ……半ば立腐りの長屋建て、掘立小屋《ほったてごや》という体《てい》なのが一棟《ひとむね》ある。
町中が、杢若をそこへ入れて、役に立つ立たないは話の外で、寄合持で、ざっと扶持《ふち》をしておくのであった。
「杢さん、どこから仕入れて来たよ。」
「縁の下か、廂合《ひあわい》かな。」
その蜘蛛の巣を見て、通掛《とおりかか》りのものが、苦笑いしながら、声を懸けると、……
「違います。」
と鼻ぐるみ頭を掉《ふ》って、
「さと[#「さと」に傍点]からじゃ、ははん。」と、ぽんと鼻を鳴らすような咳払《せきばらい》をする。此奴《こいつ》が取澄ましていかにも高慢で、且つ翁寂《おきなさ》びる。争われぬのは、お祖父さんの御典医から、父典養に相伝して、脈を取って、ト小指を刎《は》ねた時の容体と少しも変らぬ。
杢若が、さと[#「さと」に傍点]と云うのは、山、村里のその里の意味でない。註をすれば里よりは山の義で、字に顕《あらわ》せば故郷《ふるさと》になる……実家《さと》になる。
八九年|前《ぜん》晩春の頃、同じこの境内で、小児《こども》が集《あつま》って凧《たこ》を揚げて遊んでいた――杢若は顱《はち》の大きい坊主頭で、誰よりも群を抜いて、のほんと脊が高いのに、その揚げる凧は糸を惜《おし》んで、一番低く、山の上、松の空、桐の梢《こずえ》とある中に、わずかに百日紅《さるすべり》の枝とすれすれな所を舞った。
[#ここから6字下げ]
大風来い、大風来い。
小風は、可厭《いや》、可厭……
[#ここで字下げ終わり]
幼い同士が威勢よく唄う中に、杢若はただ一人、寒そうな懐手、糸巻を懐中《ふところ》に差込んだまま、この唄にはむずむずと襟を摺《す》って、頭《かぶり》を掉《ふ》って、そして面《つら》打って舞う己《おの》が凧に、合点合点をして見せていた。
……にもかかわらず、烏が騒ぐ逢魔《おうま》が時、颯《さっ》と下した風も無いのに、杢若のその低い凧が、懐の糸巻をくるりと空に巻くと、キリキリと糸を張って、一ツ星に颯と外《そ》れた。
「魔が来たよう。」
「天狗《てんぐ》が取ったあ。」
ワッと怯《おび》えて、小児《こども》たちの逃散る中を、団栗《どんぐり》の転がるように杢若は黒くなって、凧の影をどこまでも追掛《おっか》けた、その時から、行方知れず。
五日目のおなじ晩方に、骨ばかりの凧を提げて、やっぱり鳥居際にぼんやりと立っていた。天狗に攫《さら》われたという事である。
それから時々、三日、五日、多い時は半月ぐらい、月に一度、あるいは三月に二度ほどずつ、人間界に居なくなるのが例年で、いつか、そのあわれな母のそうした時も、杢若は町には居なかったのであった。
「どこへ行ってござったの。」
町の老人が問うのに答えて、
「実家《さと》へだよう。」
と、それ言うのである。この町からは、間に大川を一つ隔てた、山から山へ、峰続きを分入るに相違ない、魔の棲《す》むのはそこだと言うから。
「お実家《さと》はどこじゃ。どういう人が居さっしゃる。」
「実家の事かねえ、ははん。」
スポンと栓を抜く、件《くだん》の咳《せきばらい》を一つすると、これと同時に、鼻が尖《とが》り、眉が引釣《ひッつ》り、額の皺《しわ》が縊《くび》れるかと凹《へこ》むや、眼《まなこ》が光る。……歯が鳴り、舌が滑《なめらか》に赤くなって、滔々《とうとう》として弁舌鋭く、不思議に魔界の消息を洩《もら》す――これを聞いたものは、親たちも、祖父祖母《おおじおおば》も、その児《こ》、孫などには、決して話さなかった。
幼いものが、生意気に直接《じか》に打撞《ぶつか》る事がある。
「杢やい、実家《さと》はどこだ。」
「実家の事かい、ははん。」
や、もうその咳《せきばらい》で、小父さんのお医師《いしゃ》さんの、膚触《はだざわ》りの柔かい、冷《ひや》りとした手で、脈所をぎゅうと握られたほど、悚然《ぞっ》とするのに、たちまち鼻が尖《とが》り、眉が逆立ち、額の皺《しわ》が、ぴりぴりと蠢《うごめ》いて眼が血走る。……
聞くどころか、これに怯《おび》えて、ワッと遁《に》げる。
「実家はな。」
と背後《うしろ》から、蔽《おお》われかかって、小児《こども》の目には小山のごとく追って来る。
「御免なさい。」
「きゃっ!」
その時に限っては、杢若の耳が且つ動くと言う――嘘を吐《つ》け。
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