うに、小雨の中をちょこちょこ走りに自分で俥《くるま》を雇って乗せた。
 蛇目傘《じゃのめ》を泥に引傾《ひっかた》げ、楫棒《かじぼう》を圧《おさ》えぬばかり、泥除《どろよけ》に縋《すが》って小造《こづくり》な女が仰向《あおむ》けに母衣《ほろ》を覗《のぞ》く顔の色白々と、
「お近い内に。」
「…………」
「きっと?」
「むむ。」
「きっとですよ。」
 俊吉は黙って頷《うなず》いた。
 暗くて見えなかったろう。
「きっとよ。」
「分ったよ。」
「可《よ》ござんすか。」
「煩《うるさ》い。」と心にもなく、車夫の手前、宵から心遣いに疲れ果てて、ぐったりして、夏の雨も寒いまでに身体《からだ》もぞくぞくする癇癪《かんしゃく》まぎれに云ったのを、気にも掛けず、ほっと安心したように立直ったと思うと、
「車夫《わかいしゅ》さん、はい――……あの車賃は払いましたよ。」
「有るよ。」
「威張ってさ、それから少しですが御祝儀。気をつけて上げて下さいよ、よくねえ、気をつけて、可ござんすか。」
「大丈夫でございますよ、姉さん。」と楫《かじ》[#ルビの「かじ」は底本では「かぢ」]を取った片手に祝儀を頂きながら。
「でも遠いんですもの、道は悪し、それに暗いでしょう。」
「承合《うけあい》ましたよ。」
「それじゃ、お近いうち。」
 影を引切《ひっき》るように衝《つ》と過ぎる車のうしろを、トンと敲《たた》いたと思うと夜の潮に引残されて染次は残ってしょんぼりと立つ。
 車が路を離れた時、母衣の中とて人目も恥じず、俊吉は、ツト両掌《りょうて》で面《おもて》を蔽《おお》うて、はらはらと涙を落した。……
「でも、遠いんですもの、路は悪し、それに暗いでしょう。」
 行方も知らず、分れるように思ったのであった。
 そのまま等閑《なおざり》にすべき義理ではないのに、主人にも、女にも、あの羅《うすもの》の償《つぐない》をする用意なしには、忍んでも逢ってはならないと思うのに、あせって※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]《もが》いても、半月や一月でその金子《かね》は出来なかった。
 のみならず、追縋《おいすが》って染次が呼出しの手紙の端に、――明石のしみは、しみ抜屋にても引受け申さず、この上は、くくみ洗いをして、人肌にて暖め乾かし候よりせむ方なしとて、毎日少しずつふくみ洗いいたし候ては、おかみさんと私とにて毎夜|添臥《そいぶし》※[#「参候」のくずし字、284−1]。夜ごとにかわる何とかより針の筵《むしろ》に候えども、お前さまにお目もうじのなごりと思い候えば、それさえうつつ心に嬉しく懐しく存じ※[#「参候」のくずし字、284−3]……
 ふくみ洗いで毎晩抱く、あの明石のしみを。行かれるものか、素手で、どうして。
 秋の半ばに、住《すみ》かえた、と云って、ただそれだけ、上州伊香保から音信《たより》があった。
 やがてくわしく、と云うのが、そのままになった――今夜なのである。
 俊吉は捗取《はかど》らぬ雪を踏《ふみ》しめ踏しめ、俥《くるま》を見送られた時を思出すと、傘も忘れて、降る雪に、頭《つむり》を打たせて俯向《うつむ》きながら、義理と不義理と、人目と世間と、言訳なさと可懐《なつか》しさ、とそこに、見える女の姿に、心は暗《やみ》の目は※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]《ぼう》として白い雪、睫毛《まつげ》に解けるか雫《しずく》が落ちた。

       十一

「……そういったわけだもの、ね、……そんなに怨むもんじゃない。」
 襦袢一重の女の背《せな》へ、自分が脱いだ絣《かすり》の綿入羽織を着せて、その肩に手を置きながら、俊吉は向い合いもせず、置炬燵《おきごたつ》の同じ隅に凭《もた》れていた。
 内へ帰ると、一つ躓《つまず》きながら、框《かまち》へ上って、奥に仏壇のある、襖《ふすま》を開けて、そこに行火《あんか》をして、もう、すやすやと寐《ね》た、撫《なで》つけの可愛らしい白髪《しらが》と、裾《すそ》に解きもののある、女中の夜延《よなべ》とを見て、密《そっ》とまた閉めて、ずかずかと階子《はしご》を上《あが》ると、障子が閉って、張合の無さは、燈《あかり》にその人の影が見えない。
 で、嘘だと思った。
 ここで、トボンと夢が覚めるのであろう、と途中の雪の幻さえ、一斉に消えるような、げっそり気の抜けた思いで、思切って障子を開けると、更紗《さらさ》を掛けた置炬燵の、しかも机に遠い、縁に向いた暗い中から、と黒髪が揺《ゆら》めいて、窶《やつ》れたが、白い顔。するりと緋縮緬《ひぢりめん》の肩を抽《ぬ》いたのは夢ではなかったのである。
「どうした。」
 と顔を見た。
「こんな、うまい装《なり》をして、驚いたでしょう。」
 と莞爾《にっこり》する。
「驚いた。」
 とほっと呼吸《いき》して、どっか、と俊吉は、はじめて瀬戸ものの火鉢の縁《へり》に坐ったのである。
「ああ、座蒲団《ざぶとん》はこっち。」
 と云う、背中に当てて寝ていたのを、ずらして取ろうとしたのを見て、
「敷いておいで、そっちへ行こう、半分ずつ、」
 と俊吉はじめて笑った。……
 お染は、上野の停車場から。――深川の親の内へも行《ゆ》かずに――じかづけに車でここへ来たのだと云う。……神楽坂は引上げたが、見る間に深くなる雪に、もう郵便局の急な勾配で呼吸《いき》ついて、我慢にも動いてくれない。仕方なしに、あれから路《みち》の無い雪を分けて、矢来の中をそっちこっち、窓明りさえ見れば気兼《きがね》をしいしい、一時《ひととき》ばかり尋ね廻った。持ってた洋傘《こうもり》も雪に折れたから途中で落したと云う。それは洲崎を出る時に買ったままの。憑《つ》きもののようだ、と寂しく笑った。
 俊吉は、卍《まんじ》の中を雪に漾《ただよ》う、黒髪のみだれを思った。
 女中が、何よりか、と火を入れて炬燵に導いてから、出先へ迎いに出たあとで、冷いとだけ思った袖も裙《すそ》も衣類《きもの》が濡れたから不気味で脱いだ、そして蒲団の下へ掛けたと云う。
「何より不気味だね、衣類《きもの》の濡れるのは。……私、聞いても悚然《ぞっと》する。……済まなかった。お染さん。」
 女はそこで怨んだ。
 帰る途《みち》すがらも、真実の涙を流した言訳を聞いて、暖い炬燵の膚《はだ》のぬくもりに、とけた雪は、斉《ひと》しく女の瞳に宿った。その時のお染の目は、大《おおき》く※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》られて美しかった。
「女中《ねえ》さんは。」
「女中か、私はね、雪でひとりでに涙が出ると、茫《ぼ》っと何だか赤いじゃないか。引擦《ひっこす》ってみるとお前、つい先へ提灯《ちょうちん》が一つ行くんだ。やっと、はじめて雪の上に、こぼこぼ下駄のあとの印《つ》いたのが見えたっけ。風は出たし……歩行《ある》き悩んだろう。先へ出た女中がまだそこを、うしろの人足《ひとあし》も聞きつけないで、ふらふらして歩行《ある》いているんだ。追着《おッつ》いてね、使《つかい》がこの使だ、手を曳《ひ》くようにして力をつけて、とぼとぼ遣《や》りながら炬燵の事も聞いたよ。
 しんせつついでだ、酒屋へ寄ってくれ、と云うと、二つ返事で快く引受けたから、図に乗ってもう一つ狐蕎麦《きつねそば》を[#「狐蕎麦」は底本では「孤蕎麦」]誂《あつら》えた。」
「上州のお客にはちょうど可いわね。」
「嫌味を云うなよ。……でも、お前は先《せん》から麺類《めんるい》を断《た》ってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。」
「まあ、嬉しい。」
 と膝で確《しっか》りと手を取って、
「じゃ、あの、この炬燵の上へ盆を乗せて、お銚子をつけて、お前さん、あい、お酌って、それから私も飲んで。」
 と熟《じっ》と顔を見つつ、
「願《ねがい》が叶《かな》ったわ、私。……一生に一度、お前さん、とそうして、お酒が飲みたかった。ああ、嬉しい。余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜《くやし》い。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活《かけはないけ》を取って頂戴。」
「何にする。」
「お銚子を持つ稽古するの。」
「狂人染《きちがいじ》みた、何だな、お前。」
「よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。」
「はいはい、今夜の処《とこ》は御意次第。」
 そこが地袋で、手が直ぐに、水仙が少しすがれて、摺《ず》って、危《あやう》く落ちそうに縋《すが》ったのを、密《そっ》と取ると、羽織の肩を媚《なまめ》かしく脱掛けながら、受取ったと思うと留める間もなく、ぐ、ぐ、と咽喉《のど》を通して一息に仰いで呑んだ。
「まあ、お染。」
「だって、ここが苦しいんですもの、」
 と白い指で、わなわなと胸を擦《さす》った。
「ああ、旨《おいし》かった。さあ、お酌。いいえ、毒なものは上げはしません、ちょっと、ただ口をつけて頂戴。花にでも。」
「ままよ。」……構わず呑もうとすると雫《しずく》も無かった。
 花を唇につけた時である。
「お酒が来たら、何にも思わないで、嬉しく飲みたい。……私、ほんとに伊香保では、酷《ひど》い、情《なさけ》ない目に逢ったの。
 お前さんに逢って、皆《みんな》忘れたいと思うんだから、聞いて頂戴。……伊香保でね――すぐに一人旦那が出来たの。土地の請負師《うけおいし》だって云うのよ、頼みもしないのに無理に引かしてさ、石段の下に景ぶつを出す、射的《しゃてき》の店を拵《こしら》えてさ、そこに円髷《まるまげ》が居たんですよ。
 この寒いのに、単衣《ひとえ》一つでぶるぶる震えて、あの……千葉の。先《せん》の呉服屋が来たんでしょう。可哀相でね、お金子《かね》を遣って旅籠屋《はたごや》を世話するとね、逗留《とうりゅう》をして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人《きちがい》のような嫉妬《やきもち》やきだし、相場師と云うのが博徒《ばくちうち》でね、命知らずの破落戸《ならずもの》の子分は多し、知れると面倒だから、次の宿《しゅく》まで、おいでなさいって因果を含めて、……その時|止《よ》せば可かったのに、湯に入ったのが悪かった。……帯を解いたのを見られたでしょう。
 ――染や、今日はいい天気だ、裏の山から隅田川が幽《かすか》に見えるのが、雪晴れの名所なんだ。一所に見ないかって誘うんですもの。
 余り可懐《なつか》しさに、うっかり雪路《ゆきみち》を上《のぼ》ったわ。峠の原で、たぶさを取って引倒して、覚えがあろうと、ずるずると引摺《ひきず》られて、積った雪が摺《す》れる枝の、さいかちに手足が裂けて、あの、実の真赤《まっか》なのを見た時は、針の山に追上げられる雪の峠の亡者か、と思ったんですがね。それから……立樹に結《ゆわ》えられて、……」
「お染。」
「短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体《からだ》一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きの留《とま》るほど嬉しかった。莞爾莞爾《にこにこ》したわ。何とも言えない可《い》い心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに、……あの時、――一面に染まった事を思出して何とも言えない、いい心持だったの。この襦袢です。斬《き》られたのは、ここだの、ここだの、」
 と俊吉の瞶《みは》る目に、胸を開くと、手巾《ハンケチ》を当てた。見ると、顔の色が真蒼《まっさお》になるとともに、垂々《ぽたぽた》と血に染まるのが、溢《あふ》れて、わななく指を洩《も》れる。
 俊吉は突伏《つっぷ》した。
 血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留《や》まぬ。
 カーンと仏壇のりん[#「りん」に傍点]が響いた。
「旦那様、旦那様。」
「あ。」
 と顔を上げると、誰も居ない。炬燵の上に水仙が落ちて、花活《はないけ》の水が点滴《したた》る。
 俊吉は、駈下《かけお》りた。
 遠慮して段の下に立った女中が驚きながら、
「あれ、まあ、お銚子がつきましてございますが。」
 俊吉は呼吸《いき》がはずんで、
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