袂《たもと》の先をそっと引く。
それなり四五間、黙って小雨の路地を歩行《ある》く、……俊吉は少しずつ、…やがて傘の下を離れて出た。
「濡れますよ、貴方。」
男は黙然《だんまり》の腕組して行《ゆ》く。
「ちょっと、濡れるわ、お前さん。」
やっぱり暗い方を、男は、ひそひそ。
「濡れると云うのに、」
手は届く、羽織の袖をぐっと引いて突附けて、傘《からかさ》を傾けて、
「邪慳《じゃけん》だねえ。」
「泣いてるのか、何だな、大《おおき》な姉さんが。」
「……お前さん、可懐《なつか》しい、恋しいに、年齢《とし》に加減はありませんわね。」
「何しろ、お前、……こんな路地端《ろじばた》に立ってちゃ、しょうがない。」
「ああ、早く行きましょう。」
と目を蔽《お》うていた袖口をはらりと落すと、瓦斯《がす》の遠灯《とおあかり》にちらりと飜《かえ》る。
「少《わか》づくりで極《きま》りが悪いわね。」
と褄を捌《さば》いて取直して、
「極《きまり》が悪いと云えば、私は今、毛筋立を突張《つっぱ》らして、薄化粧は可《い》いけれども、のぼせて湯から帰って来ると、染ちゃんお客様が、ッて女房《おかみ》さんが言ったでしょう。
内へ来るような馴染《なじみ》はなし、どこの素見《ひやかし》だろうと思って、おやそうか何か気の無い返事をして、手拭《てぬぐい》を掛けながら台所口《だいどころぐち》から、ひょいと見ると、まあ、お前さんなんだもの。真赤《まっか》になったわ。極《きまり》が悪くって。」
「なぜだい。」
「悟られやしないかと思ってさ。」
「何を?……」
「だって、何をッて、お前さん、どこか、お茶屋か、待合からかけてくれれば可いじゃありませんか、唐突《だしぬけ》に内へなんぞ来るんだもの。」
「三年|越《ごし》だよ、手紙一本が当《あて》なんだ。大事な落しものを捜すような気がするからね、どこかにあるには違いないが、居るか居ないか、逢えるかどうか分りやしない。おまけに一向土地不案内で、東西分らずだもの。茶屋の広間にたった一つ膳《ぜん》を控えて、待っていて、そんな妓《こ》は居《お》りません。……居ますが遠出だなんぞと来てみたが可い。御存じの融通《ゆずう》が利かないんだから、可《よし》、ついでにお銚子《ちょうし》のおかわりが、と知らない女を呼ぶわけにゃ行かずさ、瀬ぶみをするつもりで、行ったんだ。
もっともね、居ると分ったら、門口《かどぐち》から引返《ひっかえ》[#ルビの「ひっかえ」は底本では「ひつかへ」]して、どこかで呼ぶんだっけ。媽々《かかあ》が追掛《おっかけ》るじゃないか。仕方なし奥へ入ったんだ。一間《ひとま》しかありやしない。すぐの長火鉢の前に媽々は控えた、顔の遣場《やりば》もなしに、しょびたれておりましたよ、はあ。
光った旦那じゃなし、飛んだお前の外聞だっけね、済まなかったよ。」
「あれ、お前さんも性悪《しょうわる》をすると見えて、ひがむ事を覚えたね。誰が外聞だと申しました、俊さん、」
取った袂に力が入って、
「女房《おかみ》さんに、悟られると、……だと悟られると、これから逢うのに、一々、勘定が要るじゃありませんか。おまいりだわ、お稽古だわッて内証《ないしょ》で逢うのに出憎いわ。
はじめの事は知ってるから私の年が年ですからね。主人の方じゃ目くじらを立てていますもの、――顔を見られてしまってさ……しょびたれていましたよ、はあ。――お前の外聞だっけね、済まなかった。……誰が教えたの。」
とフフンと笑って、
「素人だね。」
八
「……わざと口数も利かないで、一生懸命に我慢をしていた、御免なさいよ。」
声がまた悄《しお》れて沈んで、
「何にも言わないで、いきなり噛《かじ》りつきたかったんだけれど、澄し返って、悠々と髪を撫着《なでつ》けたりなんかして。」
「行場《ゆきば》がないから、熟々《しみじみ》拝見をしましたよ、……眩《まぶ》しい事でございました。」
「雪のようでしょう、ちょっと片膝立てた処なんざ、千年ものだわね、……染ちゃん大分御念入だねなんて、いつもはもっと塗れ、もっと髱《たぼ》を出せと云う女房《おかみ》さんが云うんだもの。どう思ったか知らないけれど、大抵こんがらかったろうと私は思うの。
そりゃ成りたけ、よくは見せたいが弱身だって、その人の見る前じゃあねえ、……察して頂戴。私はお前さんに恥かしかったわ、お乳なんか。」
と緊《し》められるように胸を圧《おさ》えた、肩が細《ほっそ》りとして重そうなので、俊吉が傘を取る、と忘れたように黙って放す。
「いいえ、結構でございました、湯あがりの水髪で、薄化粧を颯《さっ》と直したのに、別してはまた緋縮緬《ひぢりめん》のお襦袢《じゅばん》を召した処と来た日にゃ。」
「あれさ、止《よ》して頂戴……火鉢の処は横町から見通しでしょう、脱ぐにも着るにも、あの、鏡台の前しかないんだもの。……だから、お前さんに壁の方を向いてて下さいと云ったじゃありませんか。」
「だって、以前は着ものを着たより、その方が多かった人じゃないか、私はちっとも恐れやしないよ。」
「ねえ……ほほほ。……」
笑ってちょっと口籠《くちごも》って、
「ですがね、こうなると、自分ながら気が変って、お前さんの前だと花嫁も同じことよ。……何でしたっけね、そら、川柳とかに、下に居て嫁は着てからすっと立ち……」
「お前は学者だよ。」
「似てさ、お前さんに。」
「大きにお世話だ、学者に帯を〆《し》めさせる奴があるもんか、おい、……まだ一人じゃ結べないかい。」
「人、……芸者の方が、ああするんだわ。」
「勝手にしやがれ。」
「あれ。」
「ちっとやけらあねえ。」
「溝《どぶ》へ落っこちるわねえ。」
「えへん!」
と怒鳴って擦違いに人が通った。早や、旧《もと》来た瓦斯《がす》に頬冠《ほおかむ》りした薄青い肩の処が。
「どこだ。」
「一直《いちなお》の塀の処だわ。」
直《じ》きその近所であった。
「座敷はこれだけかね。」
と俊吉は小さな声で。
「もう、一間ありますよ。」
と染次が云う。……通された八畳は、燈《あかり》も明《あかる》し、ぱっとして畳も青い。床には花も活《いか》って。山家を出たような俊吉の目には、博覧会の茶座敷を見るがごとく感じられた。が、入る時見た、襖一重《ふすまひとえ》が直ぐ上框《あがりかまち》兼帯の茶の室で、そこに、髷《まげ》に結《い》った娑婆気《しゃばき》なのが、と膝を占めて構えていたから。
話に雀ほどの声も出せない。
で、もう一間と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、小庭の縁が折曲りに突当りが板戸になる。……そこが細目にあいた中に、月影かと見えたのは、廂《ひさし》に釣った箱燈寵《はこどうろう》の薄明りで、植込を濃く、むこうへぼかして薄《うっす》りと青い蚊帳《かや》。
ト顔を見合せた。
急に二人は更《あらたま》ったのである。
男が真中《まんなか》の卓子台《ちゃぶだい》に、肱《ひじ》を支《つ》いて、
「その後《のち》は。どうしたい。」
「お話にならないの。」
と自棄《やけ》に、おくれ毛を揺《ゆす》ったが、……心配はさせない、と云う姉のような呑込んだ優《やさし》い微笑《ほほえみ》。
九
「失礼な、どうも奥様をお呼立て申しまして済みません。でも、お差向いの処へ、他人が出ましてはかえってお妨げ、と存じまして、ねえ、旦那。」
と襖越に待合の女房が云った。
ぴたりと後手《うしろで》にその後を閉めたあとを、もの言わぬ応答《うけこたえ》にちょっと振返って見て、そのまま片手に茶道具を盆ごと据えて立直って、すらりと蹴出《けだ》しの紅《くれない》に、明石の裾を曳《ひ》いた姿は、しとしとと雨垂れが、子持縞《こもちじま》の浅黄に通って、露に活《い》きたように美しかった。
「いや。」
とただ間拍子《まびょうし》もなく、女房の言いぐさに返事をする、俊吉の膝へ、衝《つ》と膝をのっかかるようにして盆ごと茶碗を出したのである。
茶を充満《いっぱい》の吸子《きびしょ》が一所に乗っていた。
これは卓子台《ちゃぶだい》に載《の》せると可《よ》かった。でなくば、もう少し間《なか》を措《お》いて居《すわ》れば仔細《しさい》なかった。もとから芸妓《げいしゃ》だと離れたろう。前《さき》の遊女《おいらん》は、身を寄せるのに馴《な》れた。しかも披露目《ひろめ》の日の冷汗を恥じて、俊吉の膝に俯伏《うっぷ》した処を、(出ばな。)と呼ばれて立ったのである。……
お染はもとの座へそうして近々と来て盆ごと出しながら、も一度襖越しに見返った。名ある女を、こうはいかに、あしらうまい、――奥様と云ったな――膝に縋《すが》った透見《すきみ》をしたか、恥と怨《うらみ》を籠めた瞳は、遊里《さと》の二十《はたち》の張《はり》が籠《こも》って、熟《じっ》と襖に注がれた。
ト見つつ夢のようにうっかりして、なみなみと茶をくんだ朝顔|形《なり》の茶碗に俊吉が手を掛ける、とコトリと響いたのが胸に通って、女は盆ごと男が受取ったと思ったらしい。ドンと落ちると、盆は、ハッと持直そうとする手に引かれて、俊吉の分も浚《さら》った茶碗が対。吸子《きびしょ》も共に発奮《はずみ》を打ってお染は肩から胸、両膝かけて、ざっと、ありたけの茶を浴びたのである。
むらむらと立つ白い湯気が、崩るる褄《つま》の紅《くれない》の陽炎《かげろう》のごとく包んで伏せた。
頸《うなじ》を細く、面《おもて》を背けて、島田を斜《ななめ》に、
「あっ。」と云う。
「火傷《やけど》はしないか。」と倒れようとするその肩を抱いた。
「どうなさいました。」と女房飛込み、この体《てい》を一目見るや、
「雑巾々々。」と宙に躍って、蹴返《けかえ》す裳《もすそ》に刎《は》ねた脚は、ここに魅《さ》した魔の使《つかい》が、鴨居《かもい》を抜けて出るように見えた。
女の袖つけから膝へ湛《たま》って、落葉が埋《うず》んだような茶殻を掬《すく》って、仰向《あおむ》けた盆の上へ、俊吉がその手の雫《しずく》を切った時。
「可《よ》ござんすよ、可ござんすよ、そうしてお置きなさいまし、今|私《わたくし》が、」
と言いながら白に浅黄を縁《へり》とりの手巾《ハンケチ》で、脇を圧《おさ》えると、脇。膝をずぶずぶと圧えると、膝を、濡れたのが襦袢を透《とお》して、明石の縞《しま》に浸《にじ》んでは、手巾にひたひたと桃色の雫を染めた。――
「ええ、私あの時の事を思出したの、短刀で、ここを切られた時、」……
と、一年おいて如月《きさらぎ》の雪の夜更けにお染は、俊吉の矢来の奥の二階の置炬燵《おきごたつ》に弱々と凭《もた》れて語った。
さてその夜は、取って返して、両手に雑巾を持って、待合の女房が顕《あらわ》れたのに、染次は悄《しお》れながら、羅《うすもの》の袖を開いて見せて、
「汚点《しみ》になりましょうねえ。」
「まあ、ねえ、どうも。」
と伸上ったり、縮んだり。
「何しろ、脱がなくッちゃお前さん、直き乾くだけは乾きますからね……あちらへ来て。さあ――旦那、奥様のお膚《はだ》を見ますよ、済みませんけれど、貴下《あなた》が邪慳《じゃけん》だから仕方が無い。……」
俊吉は黙って横を向いた。
「浴衣と、さあ、お前さん、」
と引立てるようにされて、染次は悄々《しおしお》と次に出た。……組合の気脉《きみゃく》が通《かよ》って、待合の女房も、抱主《かかえぬし》が一張羅《いっちょうら》を着飾らせた、損を知って、そんなに手荒にするのであろう、ああ。
十
「大丈夫よ……大丈夫よ。」
「飛んだ、飛んだ事を……お前、主人にどうするえ。」
「まさか、取って食おうともしませんから、そんな事より。」
と莞爾《にっこり》した、顔は蒼白《あおじろ》かったが、しかしそれは蚊帳の萌黄《もえぎ》が映ったのであった。
帰る時は、効々《かいがい》しくざっと干したのを端折《はしょ》って着ていて、男に傘を持たせておいて、止せと云
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