》立《た》つ。
四
「この、お前さん手巾《ハンケチ》でさ、洋傘《かさ》の柄を、しっかりと握って歩行《ある》きましたんですよ。
あとへ跟《つ》いて来る女房《おかみ》さんの風俗《ふう》ッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長《すそなが》か何かで、鬢《びん》をべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、売《うり》ますの口上言いだわね。
察して下さいな。」
と遣瀬《やるせ》なげに、眉をせめて俯目《ふしめ》になったと思うと、まだその上に――気障《きざ》じゃありませんか、駈出《かけだ》しの女形がハイカラ娘の演《す》るように――と洋傘《かさ》を持った風采《なり》を自ら嘲《あざわら》った、その手巾《ハンケチ》を顔に当てて、水髪や荵《しのぶ》の雫《しずく》、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓《げいこ》島田を俯向《うつむ》けに膝に突伏《つっぷ》した。
その時、待合の女房が、襖越《ふすまごし》に、長火鉢の処《とこ》で、声を掛けた。
「染ちゃん、お出ばなが。」
俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀《とし》ではない。遊女《つとめ》あがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、侮《あなど》り、軽《かろ》んじ、冷評《ひやか》されたような気がして、悚然《ぞっ》として五体を取って引緊《ひきし》められたまで、極《きま》りの悪い思いをしたのであった。
いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。
思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。
はじめ、無理をして廓《くるわ》を出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓《げいしゃ》になった。
その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎|気質《かたぎ》の赫《かッ》と逆上《のぼ》せた深嵌《ふかはま》りで、家も店も潰《つぶ》した果《はて》が、女房子を四辻へ打棄《うっちゃ》って、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて遁《に》げると、旅籠住居《はたごずまい》の気を換える見物の一夜。洲崎《すさき》の廓《くるわ》へ入った時、ここの大籬《おおまがき》の女を俺が、と手折《たお》った枝に根を生《はや》す、返咲《かえりざき》の色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。
まず引掛《ひっかけ》の昼夜帯が一つ鳴って〆《しま》った姿。わざと短い煙管《きせる》で、真新しい銅壺《どうこ》に並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、廓《くるわ》をちらつく影法師を見て思出したか。
――勘定《つけ》をかく、掛《かけ》すずりに袖でかくして参らせ候、――
二年ぶり、打絶えた女の音信《たより》を受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、主《ぬし》あるものに、あえて返事もしなかったのである。
〆《しめ》の形や、雁《かり》の翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋《はるあき》の空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居《すまい》に届いたけれども、疑《うたがい》も嫉妬《しっと》も無い、かえって、卑怯《ひきょう》だ、と自分を罵《ののし》りながらも逢わずに過した。
朧々《おぼろおぼろ》の夜《よ》も過ぎず、廓は八重桜の盛《さかり》というのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻《くしまき》が褄《つま》白《しろ》く土手の暗がりを忍んで出たろう。
引手茶屋は、ものの半年とも持堪《もちこた》えず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を倒《さかさま》に浅草へ流着《ながれつ》いた。……手切《てぎれ》の髢《かもじ》も中に籠《こ》めて、芸妓髷《げいしゃまげ》に結《い》った私、千葉の人とは、きれいに分《わけ》をつけ参らせ候《そろ》。
そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥《ほととぎす》。奥山の青葉頃。……
雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。
五
八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島《むこうじま》[#ルビの「むこうじま」は底本では「むかうじま」]の百花園に行った帰途《かえるさ》、三囲《みめぐり》のあたりから土手へ颯《さっ》と雲が懸《かか》って、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車《くるま》で来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓《ざっとう》。急な雨の混雑はまた夥《おびただ》しい。江戸中の人を箱詰《はこづめ》にする体裁《ていたらく》。不見識なのはもち[#「もち」に傍点]に捏《でっ》ちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着《くッつ》く。
電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうに軋《きし》んで出る。それをも厭《いと》わない浅間しさで、児《こ》を抱いた洋服がやっと手を縋《すがっ》って乗掛《のっか》けた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児《こども》がぎゃっと悲鳴を揚げた。
この発奮《はずみ》に、
「乗るものか。」
濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出《かけだ》したが。
仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞《ひっそり》としたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂《みどう》の石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、廂《ひさし》の頼母《たのも》しさを親船の舳《みよし》のように仰いで、沫《しぶき》を避《よ》けつつ、吻《ほつ》と息。
濡れた帽子を階段|擬宝珠《ぎぼし》に預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然《ぼうぜん》としてしばらく彳《たたず》む。……
風が出て、雨は冷々《ひやひや》として小留《おや》むらしい。
雫《しずく》で、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合《かきあわ》す。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。
早や暮れかかって、ちらちらと点《とも》れる、灯の数ほど、ばらばら誰彼《たそがれ》の人通り。
話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠《こうもり》のように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立《こだち》も見えて、濃く淡く墨になり行く。
朝から内を出て、随分|遠路《とおみち》を掛けた男は、不思議に遥々《はるばる》と旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。
「訪ねてみようか、この近処だ。」
既に、駈込《かけこ》んで、一呼吸《ひといき》吐《つ》いた頃から、降籠《ふりこ》められた出前《でさき》の雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢《はか》ない顔を出して格子に縋《すが》って、此方《こなた》を差覗《さしのぞ》くような気がして、筋骨《すじぼね》も、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいや増《まさ》る。……
ここで逢うのは、旅路|遥《はるか》な他国の廓《くるわ》で、夜更けて寝乱れた従妹《いとこ》にめぐり合って、すがり寄る、手の緋縮緬《ひぢりめん》は心の通う同じ骨肉の血であるがごとく胸をそそられたのである。
抱えられた家も、勤めの名も、手紙のたよりに聞いて忘れぬ。
「可《よ》し。」
肩を揺《ゆす》って、一ツ、胸で意気込んで、帽子を俯向《うつむ》けにして、御堂の廂《ひさし》を出た。……
軽い雨で、もう面《おもて》を打つほどではないが、引緊《ひきし》めた袂《たもと》重たく、しょんぼりとして、九十九折《つづらおり》なる抜裏、横町。谷のドン底の溝《どぶ》づたい、次第に暗き奥山路《おくやまみち》。
六
時々足許から、はっと鳥の立つ女の影。……けたたましく、可哀《あわれ》に、心悲《うらがな》しい、鳶《とび》にとらるると聞く果敢《はか》ない蝉の声に、俊吉は肝を冷しつつ、※[#「火+發」、269−9]々《ぱっぱっ》と面《おもて》を照らす狐火《きつねび》の御神燈に、幾たびか驚いて目を塞《ふさ》いだが、路も坂に沈むばかり。いよいよ谷深く、水が漆《うるし》を流した溝端《どぶばた》に、茨《いばら》のごとき格子|前《さき》、消えずに目に着く狐火が一つ、ぼんやりとして(蔦屋《つたや》)とある。
「これだ。」
密《そっ》と、下へ屈《かが》むようにしてその御神燈を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、他《ほか》に小草《おぐさ》の影は無い、染次、と記した一葉《ひとは》のみ。で、それさえ、もと居たらしい芸妓《げいしゃ》の上へ貼紙《はりがみ》をしたのに記してあった。看板を書《かき》かえる隙《ひま》もない、まだ出たてだという、新しさより、一人旅の木賃宿に、かよわい女が紙衾《かみぶすま》の可哀さが見えた。
とばかりで、俊吉は黙って通過ぎた。
が、筋向うの格子戸の鼠鳴《ねずみなき》に、ハッと、むささびが吠《ほ》えたほど驚いて引返《ひっかえ》して、蔦屋の門を逆に戻る。
俯向《うつむ》いて彳《たたず》んでまた御神燈を覗《のぞ》いた。が、前刻《さっき》の雨が降込んで閉めたのか、框《かまち》の障子は引いてある。……そこに切張《きりばり》の紙に目隠しされて、あの女が染次か、と思う、胸がドキドキして、また行過ぎる。
トあの鼠鳴がこっちを見た。狐のようで鼻が白い。
俊吉は取って返した。また戻って、同じことを四五|度《たび》した。
いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼の笈《おい》に国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染《なじみ》に逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降って湧《わ》くような事があろう、と取越苦労の胸騒《むなさわぎ》がしたのであった。
「御免。」
と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子を圧《おさ》えて、そして片足|遁構《にげがま》えで立っていた。
「今晩は。」
「はい、今晩は。」
と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家《ひとつや》の婆々《ばばあ》かと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀《とし》には似ないで、頸《くび》を塗った、浴衣の模様も大年増。
これが女房とすぐに知れた。
俊吉は、ト御神燈の灯を避《よ》けて、路地の暗い方へ衝《つッ》と身を引く。
白粉《おしろい》のその頸を、ぬいと出額《おでこ》の下の、小慧《こざか》しげに、世智辛く光る金壺眼《かなつぼまなこ》で、じろりと見越して、
「今晩は。誰方様《どなたさま》で?」
「お宅に染次ってのは居《お》りますか。」
「はい居りますでございますが。」
と立塞《たちふさ》がるように、しかも、遁《にが》すまいとするように、框《かまち》一杯にはだかるのである。
「ちょっとお呼び下さいませんか。」
ああ、来なければ可《よ》かった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘《ぬかるみ》へ落ちた気がする。
「唯今《ただいま》お湯へ参ってますがね、……まあ、貴方《あなた》。」と金壺眼はいよいよ光った。
「それじゃまた来ましょう。」
「まあ、貴方。」
風体を見定めたか、慌《あわただ》しく土間へ片足を下ろして、
「直《じ》きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」
「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」
「あら、貴方、串戯《じょうだん》じゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」
七
「相合傘でいらっしゃいまし、染ちゃん、嬉しいでしょう、えへへへへ、貴方、御機嫌よう。」
と送出した。……
傘《からかさ》は、染次が褄《つま》を取ってさしかける。
「可厭《いや》な媽々《かかあ》だな。」
「まだ聞えますよ。」
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