第二菎蒻本
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夜路《よみち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)隙間|洩《も》る
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す
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一
雪の夜路《よみち》の、人影もない真白《まっしろ》な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍《わき》なる置炬燵《おきごたつ》に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦《おんな》の一重々々《ひとえひとえ》、燃立つような長襦袢《ながじゅばん》ばかりだった姿は、思い懸けずもまた類《たぐい》なく美しいものであった。
膚《はだ》を蔽《おお》うに紅《くれない》のみで、人の家に澄まし振《ふり》。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。
世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪《あやし》まなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂《あが》って、路々の雪礫《ゆきつぶて》に目が眩《くら》んだ次第ではない。
――逢いに来た――と報知《しらせ》を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家《うち》から、番傘を傾け傾け、雪を凌《しの》いで帰る途中も、その婦《おんな》を思うと、鎖《とざ》した町家《まちや》の隙間|洩《も》る、仄《ほのか》な燈火《あかり》よりも颯《さっ》と濃い緋《ひ》の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視《み》たのであるから。
当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己《ちかづき》が集って、袋廻しの運座があった。雪を当込《あてこ》んだ催《もよおし》ではなかったけれども、黄昏《たそがれ》が白くなって、さて小留《こや》みもなく降頻《ふりしき》る。戸外《おもて》の寂寞《さみ》しいほど燈《ともしび》の興は湧《わ》いて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚《ふぐ》も鉄砲も、持って来い。……勢《いきおい》はさりながら、もの凄《すご》いくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破《すわ》や、蒐《かか》れと、木戸を開いて切って出《い》づべき矢種はないので、逸雄《はやりお》の面々|歯噛《はがみ》をしながら、ひたすら籠城《ろうじょう》の軍議一決。
そのつもりで、――千破矢《ちはや》の雨滴《あまだれ》という用意は無い――水の手の燗徳利《かんどくり》も宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自《てんで》が、好《すき》、悪《きらい》、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一《ひとつ》……何某《なにがし》……好《すき》なものは、美人。
「遠慮は要らないよ。」
悪《にく》むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。
箇条の中に、最好、としたのがあり。
「この最好というのは。」
「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引《ひっ》くるめてちょっと金麩羅《きんぷら》にして頬張るんだ。」
その標目《みだし》の下へ、何よりも先に==待人|来《きた》る==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。
襖《ふすま》をすうと開けて、当家の女中が、
「吉岡さん、お宅からお使《つかい》でございます。」
「内から……」
「へい、女中さんがお見えなさいました。」
「何てって?」
「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」
「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。
お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人《としより》を持つ胸に応《こた》えた。
「敵の間諜《まわしもの》じゃないか。」と座の右に居て、猪口《ちょく》を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向《うつむ》いたままで云った。
「まさか。」
と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、燈《あかり》の色が颯《さっ》と白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。
二
「ちょっと、失礼する。」
で、引返して行《ゆ》く女中のあとへついて、出しなに、真中《まんなか》の襖《ふすま》を閉める、と降積《ふりつも》る雪の夜《よ》は、一重《ひとえ》の隔《へだて》も音が沈んで、酒の座は摺退《すりの》いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴《きな》れた家《うち》で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。
取次いだ女中は、もう台所へ出て、鍋《なべ》を上る湯気の影。
そこから彗星《ほうきぼし》のような燈《あかり》の末が、半ば開けかけた襖越、仄《ほのか》に玄関の畳へさす、と見ると、沓脱《くつぬぎ》の三和土《たたき》を間《あい》に、暗い格子戸にぴたりと附着《くッつ》いて、横向きに立って[#「立って」は底本では「立つて」]いたのは、俊吉の世帯に年増《としま》の女中で。
二月ばかり給金の借《かり》のあるのが、同じく三月ほど滞《とどこお》った、差配で借りた屋号の黒い提灯《ちょうちん》を袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立《たなだ》てをくわせもしまい。
「おい、……何だ、何だ。」と框《かまち》まで。
「あ、旦那様。」
と小腰を屈《かが》めたが、向直って、
「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。
余り要ありそうなのに、急《せ》き心に声が苛立《いらだ》って、
「入れよ、こっちへ。」
「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿《はき》ものが、」
成程、暴風雨《あらし》の舟が遁込《にげこ》んださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。
「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」
「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から燈《あかり》の透く、その正面の襖を閉めた。
真暗《まっくら》になる土間の其方《そなた》に、雪の袖なる提灯一つ、夜を遥《はるか》な思《おもい》がする。
労《ねぎ》らい心で、
「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。
「もう、貴方《あなた》、足駄《あしだ》が沈みますほどでございます。」
聞きも果てずに格子に着いて、
「何だ。」
「お客様でございまして。」と少し顔を退《ど》けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸《いき》づかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。
「誰だ。」
「あの、宮本様とおっしゃいます。」
「宮本……どんな男だ。」
時に、傘《からかさ》を横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を潜《くぐ》った。
「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」
「婦《おんな》が?」
「はい。」
「婦だ……待ってるのか。」
「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」
「はてな、……」
とのみで、俊吉はちょっと黙った。
女中は、その太った躯《からだ》を揉《も》みこなすように、も一つ腰を屈《かが》めながら、
「それに、あの、お出先へお迎いに行《ゆ》くのなら、御朋輩《ごほうばい》の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証《ないしょ》でと、くれぐれも、お託《ことづ》けでございましたものですから。」
「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」
「ええ、御遠方。」
「遠い処か。」
「深川からとおっしゃいました。」
「ああ、襟巻なんか取らんでも可《い》い。……お帰り。」
女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、
「どういたしましょう。」
「……可《よ》し、直ぐ帰る。」
座敷に引返《ひっかえ》そうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、
「どんな風采《ふう》をしている。」と声を密《ひそ》めると。
「あの真紅《まっか》なお襦袢《じゅばん》で、お跣足《はだし》で。」
三
「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」
俊吉は、外套《がいとう》も無《な》しに、番傘で、帰途《かえり》を急ぐ中《うち》に、雪で足許《あしもと》も辿々《たどたど》しいに附けても、心も空も真白《まっしろ》に跣足《はだし》というのが身に染みる。
――しかし可訝《おか》しい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損《しそこな》いで、あの、お染《そめ》の、あの体《からだ》に、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――
※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》せば、我が袖も、他《ひと》の垣根も雪である。
――去年の夏、たしか八月の末と思う、――
その事のあった時、お染は白地|明石《あかし》に藍《あい》で子持縞《こもちじま》の羅《うすもの》を着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋《げいしゃや》に丸抱えという、可哀《あわれ》な流《ながれ》にしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、明《あかる》いのも、そこいら、……御神燈|並《なみ》に、絽《ろ》なり、お召《めし》なり単衣《ひとえもの》に衣更《きか》える筈《はず》。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤《で》て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染《なじみ》は無いらしく、連立って行《ゆ》く先を、内証で、抱主《かかえぬし》の蔦家《つたや》の女房とひそひそと囁《ささや》いて、その指図に任かせた始末。
披露《ひろめ》の日は、目も眩《くら》むように暑かったと云った。
主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣《ほろ》を掛けて護謨輪《ゴムわ》を軋《きし》らせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘《こうもり》をさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。
「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児《あかんぼ》に生れかわった気になったんですけれど、情《なさけ》ないッてなかったわ。
その洋傘《かさ》だって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行《ある》いた、黄色い汚点《しみ》だらけなんじゃありませんか。
そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」
と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩《おもや》せた、が、色の白い顋《おとがい》で圧《おさ》えて云う。
その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、膚《はだえ》を包んだ紅《くれない》であった。
「……この土地じゃ、これでないと不可《いけな》いんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。
それで、白足袋でお練《ねり》でしょう。もう五にもなって真白《まっしろ》でしょう、顔はむらになる……奥山相当で、煤《すす》けた行燈《あんどん》の影へ横向きに手を支《つ》いて、肩で挨拶《あいさつ》をして出るんなら可《い》いけれど、それだって凄《すご》いわね。
真昼間《まっぴるま》でしょう、遣切《やりき》れたもんじゃありゃしない。
冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘《かさ》を持った手が辷《すべ》るんですもの、掌《てのひら》から、」
と二の腕が衝《つ》と白く、且つ白麻の手巾《ハンケチ》で、ト肩をおさえて、熟《じっ》と見た瞼《まぶた》の白露。
――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々《しらじら》と俤《おもかげ
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