ぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤《で》て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染《なじみ》は無いらしく、連立って行《ゆ》く先を、内証で、抱主《かかえぬし》の蔦家《つたや》の女房とひそひそと囁《ささや》いて、その指図に任かせた始末。
披露《ひろめ》の日は、目も眩《くら》むように暑かったと云った。
主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣《ほろ》を掛けて護謨輪《ゴムわ》を軋《きし》らせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘《こうもり》をさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。
「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児《あかんぼ》に生れかわった気になったんですけれど、情《なさけ》ないッてなかったわ。
その洋傘《かさ》だって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行《ある》いた、黄色い汚点《しみ》だらけなんじゃありませんか。
そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」
と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩《おもや》せた、が、色の白い顋《おとがい》で圧《おさ》えて云う。
その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、膚《はだえ》を包んだ紅《くれない》であった。
「……この土地じゃ、これでないと不可《いけな》いんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。
それで、白足袋でお練《ねり》でしょう。もう五にもなって真白《まっしろ》でしょう、顔はむらになる……奥山相当で、煤《すす》けた行燈《あんどん》の影へ横向きに手を支《つ》いて、肩で挨拶《あいさつ》をして出るんなら可《い》いけれど、それだって凄《すご》いわね。
真昼間《まっぴるま》でしょう、遣切《やりき》れたもんじゃありゃしない。
冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘《かさ》を持った手が辷《すべ》るんですもの、掌《てのひら》から、」
と二の腕が衝《つ》と白く、且つ白麻の手巾《ハンケチ》で、ト肩をおさえて、熟《じっ》と見た瞼《まぶた》の白露。
――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々《しらじら》と俤《おもかげ》立《た》つ。
四
「この、お前さん手巾《ハンケチ》でさ、洋傘《かさ》の柄を、しっかりと握って歩行《ある》きましたんですよ。
あとへ跟《つ》いて来る女房《おかみ》さんの風俗《ふう》ッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長《すそなが》か何かで、鬢《びん》をべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、売《うり》ますの口上言いだわね。
察して下さいな。」
と遣瀬《やるせ》なげに、眉をせめて俯目《ふしめ》になったと思うと、まだその上に――気障《きざ》じゃありませんか、駈出《かけだ》しの女形がハイカラ娘の演《す》るように――と洋傘《かさ》を持った風采《なり》を自ら嘲《あざわら》った、その手巾《ハンケチ》を顔に当てて、水髪や荵《しのぶ》の雫《しずく》、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓《げいこ》島田を俯向《うつむ》けに膝に突伏《つっぷ》した。
その時、待合の女房が、襖越《ふすまごし》に、長火鉢の処《とこ》で、声を掛けた。
「染ちゃん、お出ばなが。」
俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀《とし》ではない。遊女《つとめ》あがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、侮《あなど》り、軽《かろ》んじ、冷評《ひやか》されたような気がして、悚然《ぞっ》として五体を取って引緊《ひきし》められたまで、極《きま》りの悪い思いをしたのであった。
いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。
思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。
はじめ、無理をして廓《くるわ》を出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓《げいしゃ》になった。
その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎|気質《かたぎ》の赫《かッ》と逆上《のぼ》せた深嵌《ふかはま》りで、家も店も潰《つぶ》した果《はて》が、女房子を四辻へ打棄《うっちゃ》って、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて遁《に》げると、旅籠住居《はたごずまい》の気を換える見物の一夜。洲崎《すさき》の廓《くるわ》へ入った時、ここの大籬《おおまがき》の女を俺が、と手折《たお》った枝に根を生《はや》
前へ
次へ
全11ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング