がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。
取次いだ女中は、もう台所へ出て、鍋《なべ》を上る湯気の影。
そこから彗星《ほうきぼし》のような燈《あかり》の末が、半ば開けかけた襖越、仄《ほのか》に玄関の畳へさす、と見ると、沓脱《くつぬぎ》の三和土《たたき》を間《あい》に、暗い格子戸にぴたりと附着《くッつ》いて、横向きに立って[#「立って」は底本では「立つて」]いたのは、俊吉の世帯に年増《としま》の女中で。
二月ばかり給金の借《かり》のあるのが、同じく三月ほど滞《とどこお》った、差配で借りた屋号の黒い提灯《ちょうちん》を袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立《たなだ》てをくわせもしまい。
「おい、……何だ、何だ。」と框《かまち》まで。
「あ、旦那様。」
と小腰を屈《かが》めたが、向直って、
「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。
余り要ありそうなのに、急《せ》き心に声が苛立《いらだ》って、
「入れよ、こっちへ。」
「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿《はき》ものが、」
成程、暴風雨《あらし》の舟が遁込《にげこ》んださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。
「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」
「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から燈《あかり》の透く、その正面の襖を閉めた。
真暗《まっくら》になる土間の其方《そなた》に、雪の袖なる提灯一つ、夜を遥《はるか》な思《おもい》がする。
労《ねぎ》らい心で、
「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。
「もう、貴方《あなた》、足駄《あしだ》が沈みますほどでございます。」
聞きも果てずに格子に着いて、
「何だ。」
「お客様でございまして。」と少し顔を退《ど》けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸《いき》づかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。
「誰だ。」
「あの、宮本様とおっしゃいます。」
「宮本……どんな男だ。」
時に、傘《からかさ》を横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を潜《くぐ》った。
「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」
「婦《おんな》が?」
「はい。」
「婦だ……待ってるのか。」
「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」
「はてな、……」
とのみで、俊吉はちょっと黙った。
女中は、その太った躯《からだ》を揉《も》みこなすように、も一つ腰を屈《かが》めながら、
「それに、あの、お出先へお迎いに行《ゆ》くのなら、御朋輩《ごほうばい》の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証《ないしょ》でと、くれぐれも、お託《ことづ》けでございましたものですから。」
「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」
「ええ、御遠方。」
「遠い処か。」
「深川からとおっしゃいました。」
「ああ、襟巻なんか取らんでも可《い》い。……お帰り。」
女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、
「どういたしましょう。」
「……可《よ》し、直ぐ帰る。」
座敷に引返《ひっかえ》そうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、
「どんな風采《ふう》をしている。」と声を密《ひそ》めると。
「あの真紅《まっか》なお襦袢《じゅばん》で、お跣足《はだし》で。」
三
「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」
俊吉は、外套《がいとう》も無《な》しに、番傘で、帰途《かえり》を急ぐ中《うち》に、雪で足許《あしもと》も辿々《たどたど》しいに附けても、心も空も真白《まっしろ》に跣足《はだし》というのが身に染みる。
――しかし可訝《おか》しい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損《しそこな》いで、あの、お染《そめ》の、あの体《からだ》に、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――
※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》せば、我が袖も、他《ひと》の垣根も雪である。
――去年の夏、たしか八月の末と思う、――
その事のあった時、お染は白地|明石《あかし》に藍《あい》で子持縞《こもちじま》の羅《うすもの》を着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋《げいしゃや》に丸抱えという、可哀《あわれ》な流《ながれ》にしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、明《あかる》いのも、そこいら、……御神燈|並《なみ》に、絽《ろ》なり、お召《めし》なり単衣《ひとえもの》に衣更《きか》える筈《はず》。……しょぼしょ
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