す、返咲《かえりざき》の色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。
まず引掛《ひっかけ》の昼夜帯が一つ鳴って〆《しま》った姿。わざと短い煙管《きせる》で、真新しい銅壺《どうこ》に並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、廓《くるわ》をちらつく影法師を見て思出したか。
――勘定《つけ》をかく、掛《かけ》すずりに袖でかくして参らせ候、――
二年ぶり、打絶えた女の音信《たより》を受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、主《ぬし》あるものに、あえて返事もしなかったのである。
〆《しめ》の形や、雁《かり》の翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋《はるあき》の空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居《すまい》に届いたけれども、疑《うたがい》も嫉妬《しっと》も無い、かえって、卑怯《ひきょう》だ、と自分を罵《ののし》りながらも逢わずに過した。
朧々《おぼろおぼろ》の夜《よ》も過ぎず、廓は八重桜の盛《さかり》というのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻《くしまき》が褄《つま》白《しろ》く土手の暗がりを忍んで出たろう。
引手茶屋は、ものの半年とも持堪《もちこた》えず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を倒《さかさま》に浅草へ流着《ながれつ》いた。……手切《てぎれ》の髢《かもじ》も中に籠《こ》めて、芸妓髷《げいしゃまげ》に結《い》った私、千葉の人とは、きれいに分《わけ》をつけ参らせ候《そろ》。
そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥《ほととぎす》。奥山の青葉頃。……
雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。
五
八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島《むこうじま》[#ルビの「むこうじま」は底本では「むかうじま」]の百花園に行った帰途《かえるさ》、三囲《みめぐり》のあたりから土手へ颯《さっ》と雲が懸《かか》って、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車《くるま》で来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓《ざっとう》。急な雨の混雑はまた夥《おびただ》しい。江戸中の人を箱詰《はこづめ》にする体裁《ていたらく》。不見識なのはもち[#「もち」に傍点]に捏《でっ》ちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着《くッつ》く。
電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうに軋《きし》んで出る。それをも厭《いと》わない浅間しさで、児《こ》を抱いた洋服がやっと手を縋《すがっ》って乗掛《のっか》けた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児《こども》がぎゃっと悲鳴を揚げた。
この発奮《はずみ》に、
「乗るものか。」
濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出《かけだ》したが。
仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞《ひっそり》としたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂《みどう》の石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、廂《ひさし》の頼母《たのも》しさを親船の舳《みよし》のように仰いで、沫《しぶき》を避《よ》けつつ、吻《ほつ》と息。
濡れた帽子を階段|擬宝珠《ぎぼし》に預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然《ぼうぜん》としてしばらく彳《たたず》む。……
風が出て、雨は冷々《ひやひや》として小留《おや》むらしい。
雫《しずく》で、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合《かきあわ》す。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。
早や暮れかかって、ちらちらと点《とも》れる、灯の数ほど、ばらばら誰彼《たそがれ》の人通り。
話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠《こうもり》のように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立《こだち》も見えて、濃く淡く墨になり行く。
朝から内を出て、随分|遠路《とおみち》を掛けた男は、不思議に遥々《はるばる》と旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。
「訪ねてみようか、この近処だ。」
既に、駈込《かけこ》んで、一呼吸《ひといき》吐《つ》いた頃から、降籠《ふりこ》められた出前《でさき》の雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢《はか》ない顔を出して格子に縋《すが》って、此方《こなた》を差覗《さしのぞ》くような気がして、筋骨《すじぼね》も、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいや増《まさ》る。……
ここで逢うのは、旅路|遥《
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