ったったっ、甘露甘露。きゃッきゃッきゃッ。はて、もう御前《おんまえ》に近い。も一度馬柄杓でもあるまいし、猿にも及ぶまい。(とろりと酔える目に、あなたに、階《きざはし》なるお沢の姿を見る。慌《あわただ》しくまうつむけに平伏《ひれふ》す)ははッ、大権現《だいごんげん》様、御免なされ下さりませ、御免なされ下さりませ。霊験《あらたか》な御姿《おすがた》に対し恐多《おそれおお》い。今やなぞ申しましたる儀は、全く譫言《たわごと》にござります。猿の面を被りましたも、唯おみきを私《わたくし》しょう、不届《ふとどき》ばかりではござりませぬ、貴女様御祭礼の前日夕、お厩《うまや》の蘆毛を猿が曳《ひ》いて、里方《さとかた》を一巡いたしますると、それがそのままに風雨順調、五穀|成就《じょうじゅ》、百難|皆除《かいじょ》の御神符《ごしんぷ》となります段を、氏子中《うじこじゅう》申伝《もうしつた》え、これが吉例《きちれい》にござりまして、従って、海つもの山つものの献上を、は、はッ、御覧の如く清らかに仕《つかまつ》りまする儀でござりまして、偏《ひとえ》にこれ、貴女様御威徳にござります。お庇《かげ》を蒙《こうむ》りまする嬉《うれ》しさの余り、ついたべ酔いまして、申訳《もうしわけ》もござりませぬ。真平御免《まっぴらおゆる》され下されまし。ははッ、(恐る恐る地につけたる額《ひたい》を擡《もた》ぐ。お沢。うとうととしたるまま、しなやかに膝《ひざ》をかえ身動《みじろ》ぎす。長襦袢《ながじゅばん》の浅葱《あさぎ》の褄《つま》、しっとりと幽《かすか》に媚《なま》めく)それへ、唯今それへ参りまする。恐れ恐れ。ああ、恐れ。それ以《もっ》て、烏帽子きた人の屑《くず》とも思召《おぼしめ》さず、面《つら》の赤い畜生《ちくしょう》とお見許し願わしう、はッ、恐れ、恐れ。(再び猿の面を被りつつも進み得ず、馬の腹に添い身を屈《かが》め、神前を差覗《さしのぞ》く)蘆毛よ、先へ立てよ。貴女様み気色《けしき》に触《ふる》る時は、矢の如く鬢櫛《びんぐし》をお投げ遊ばし、片目をお潰《つぶ》し遊ばすが神罰と承る。恐れ恐れ。(手綱を放たれたる蘆毛は、頓着《とんじゃく》なく衝《つ》と進む。仕丁は、ひょこひょこと従い続く。舞台やがて正面にて、蘆毛は一気に厩《うまや》の方《かた》、右手もみじの中にかくる。この一気に、尾の煽《あおり》をくらえる如く、仕丁、ハタと躓《つまず》き四《よ》つに這《は》い、面を落す。慌《あわ》てて懐《ふところ》に捻込《ねじこ》む時、間近《まぢか》にお沢を見て、ハッと身を退《すさ》りながら凝《じっ》と再び見直す)何《なん》じゃ、人か、参詣《さんけい》のものか。はて、可惜《あったら》二つない肝《きも》を潰《つぶ》した。ほう、町方《まちかた》の。……艶々《つやつや》と媚《なま》めいた婦《おんな》じゃが、ええ、驚かしおった、おのれ! しかも、のうのうと居睡《いねむ》りくさって、何処《どこ》に、馬の通るを知らぬ婦があるものか、野放図《のほうず》な奴《やつ》めが。――いやいや、御堂《みどう》、御社《みやしろ》に、参籠《さんろう》、通夜《つや》のものの、うたたねするは、神の御《お》つげのある折じゃと申す。神慮のほども畏《かしこ》い。……眠《ねむり》を驚かしてはなるまいぞ。(抜足《ぬきあし》に社前を横ぎる時、お沢。うつつに膝を直さんとする懐中より、一|挺《ちょう》の鉄槌《かなづち》ハタと落つ。カタンと鳴る。仕丁。この聊《いささか》の音にも驚きたる状《さま》して、足を爪立《つまだ》てつつ熟《じっ》と見て、わなわなと身ぶるいするとともに、足疾《あしばや》に樹立《こだち》に飛入《とびい》る。間《ま》。――懐紙《かいし》の端《はし》乱れて、お沢の白き胸《むな》さきより五寸|釘《くぎ》パラリと落つ。)
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白寮権現《はくりょうごんげん》の神職を真先《まっさき》に、禰宜《ねぎ》。村人《むらびと》一同。仕丁続いて出《い》づ――神職、年四十ばかり、色白く肥えて、鼻下《びか》に髯《ひげ》あり。落ちたる鉄槌を奪うと斉《ひと》しく、お沢の肩を掴《つか》む。
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神職 これ、婦《おんな》。
お沢 (声の下に驚き覚《さ》め、身を免《のが》れんとして、階前には衆の林立せるに遁場《にげば》を失い、神職の手を振りもぎりながら)御免なさいまし、御免なさいまし。(一度|階《きざはし》をのぼりに、廻廊の左へ遁ぐ。人々は縁下《えんした》より、ばらばらとその行く方《ほう》を取巻く。お沢。遁げつつ引返《ひきかえ》すを、神職、追状《おいざま》に引違《ひきちが》え、帯|際《ぎわ》をむずと取る。ずるずる黒繻子《くろじゅす》の解くるを取って棄て、引据《ひきす》え、お沢の両手をもて犇《ひし》と蔽《おお》う乱れたる胸に、岸破《がば》と手を差入《さしいれ》る)あれ、あれえ。
神職 (発《あば》き出したる形代《かたしろ》の藁《わら》人形に、すくすくと釘の刺《ささ》りたるを片手に高く、片手に鉄槌を翳《かざ》すと斉しく、威丈高《いたけだか》に突立上《つッたちあが》り、お沢の弱腰《よわごし》を※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と蹴《け》る)汚らわしいぞ! 罰当《ばちあた》り。
お沢 あ。(階《きざはし》を転《まろ》び落つ。)
神職 鬼畜、人外《にんがい》、沙汰《さた》の限りの所業をいたす。
禰宜 いや何とも……この頃《ごろ》の三《み》晩|四《よ》晩、夜《よ》ふけ小《さ》ふけに、この方角……あの森の奥に当って、化鳥《けちょう》の叫ぶような声がしまするで、話に聞く、咒詛《のろい》の釘かとも思いました。なれど、場所|柄《がら》ゆえの僻耳《ひがみみ》で、今の時節に丑《うし》の刻参《ときまいり》などは現《うつつ》にもない事と、聞き流しておったじゃが、何と先《ま》ず……この雌鬼《めすおに》を、夜叉《やしゃ》を、眼前に見る事わい。それそれ俯向《うつむ》いた頬骨《ほおぼね》がガッキと尖《とが》って、頤《あご》は嘴《くちばし》のように三角|形《なり》に、口は耳まで真赤《まっか》に裂けて、色も縹《はなだいろ》になって来た。
般若の面の男 (希有《けう》なる顔して)禰宜様や、私《わし》らが事をおっしゃるずらか。
禰宜 気《け》もない事、この女夜叉《にょやしゃ》の悪相《あくそう》じゃ。
般若の面の男 ほう。
道化の面の男 (うそうそと前に出《い》づ)何と、あの、打込む太鼓……
〆太鼓の男 何じゃい。何じゃい。
道化の面 いや、太鼓ではない。打込む、それよ、カーンカーンと五寸釘……あの可恐《おそろし》い、藁の人形に五寸釘ちゅうは、はあ、その事でござりますかね。(下より神職の手に伸上《のびあが》る。)
笛の男 (おなじく伸上る)手首、足首、腹の真中(我が臍《へそ》を圧《おさ》えて反《そ》る)ひゃあ、みしみしと釘の頭も見えぬまで打込んだ。ええ、血など、ぼたれてはいぬずらか。
神職 (彼が言《ことば》のままに、手、足、胴|腹《はら》を打返して藁人形を翳《かざ》し見る)血も滴《た》りょう。…藁も肉のように裂けてある。これ、寄るまい。(この時人々の立かかるを掻払《かいはら》う)六根清浄《ろっこんしょうじょう》、澄むらく、浄《きよ》むらく、清らかに、神に仕うる身なればこそ、この邪《よこしま》を手にも取るわ。御身《おみ》たちが悪く近づくと、見たばかりでも筋骨《すじぼね》を悩み煩《わず》らうぞよ。(今度は悠然《ゆうぜん》として階《きざはし》を下《くだ》る。人々は左右に開く)荒《あら》び、すさみ、濁り汚れ、ねじけ、曲れる、妬婦《ねたみおんな》め、われは、先ず何処《いずこ》のものじゃ。
お沢 (もの言わず。)
神職 人の娘か。
お沢 (わずかに頭《かぶり》ふる。)
神職 人妻《ひとづま》か。
禰宜 人妻にしては、艶々《つやつや》と所帯気《しょたいげ》が一向《いっこう》に見えぬな。また所帯せぬほどの身柄《みがら》とも見えぬ。妾《めかけ》、てかけ、囲《かこい》ものか、これ、霊験《あらたか》な神の御前《みまえ》じゃ、明かに申せ。
お沢 はい、何も申しませぬ、ただ(きれぎれにいう)お恥《はずか》しう存じます。
神職 おのれが恥を知る奴か。――本妻正室と言わばまた聞こえる。人のもてあそびの腐れ爛《ただ》れ汚《よご》れものが、かけまくも畏《かしこ》き……清く、美しき御神《おんかみ》に、嫉妬《しっと》の願《ねがい》を掛けるとは何事じゃ。
禰宜 これ、速《すみやか》におわびを申し、裸身《はだかみ》に塩をつけて揉《も》んでなりとも、払い浄《きよ》めておもらい申せ。
神職 いや布気田《ふげた》、(禰宜の名)払い清むるより前に、第一は神の御罰《ごばつ》、神罰じゃ。御神《おんかみ》の御心《みこころ》は、仕え奉る神《かん》ぬしがよく存じておる。――既に、草刈り、柴《しば》刈りの女なら知らぬこと、髪、化粧《けわい》し、色香《いろか》、容《かたち》づくった町の女が、御堂《みどう》、拝殿とも言わず、この階《きざはし》に端近《はしぢか》く、小春《こはる》の日南《ひなた》でもある事か。土も、風も、山気《さんき》、夜とともに身に沁《し》むと申すに。――
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神楽の人々。「酔《よい》も覚《さ》めて来た」「おお寒《さむ》」など、皆《みんな》、襟《えり》、袖を掻合《かきあ》わす。
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神職 ……居眠りいたいて、ものもあろうず、棺《かん》の蓋《ふた》を打つよりも可忌《いまわし》い、鉄槌《かなづち》を落し、釘《くぎ》を溢《こぼ》す――釘は?……
禰宜 (掌《たなごころ》を見す)これに。
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神楽の人々、そと集《つど》い覗《のぞ》く。
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神職 即《すなわ》ち神の御心《みこころ》じゃ――その御心を畏み、次第を以て、順に運ばねば相成らん。唯今|布気田《ふげた》も申す――三晩、四晩、続けて、森の中に鉄槌の音を聞いたというが、毎夜、これへ参ったのか、これ、明《あきらか》に申せよ。どうじゃ。
お沢 はい、(言い淀《よど》み、言い淀み)今《こん》……夜《や》……が、満……願……でございました。
神職 (御堂を敬う)ああ、神慮は貴《とうと》い。非願非礼はうけ給《たま》わずとも、俗にも満願と申す、その夕《ゆうべ》に露顕した。明かに邪悪を退け給うたのじゃ。――先刻も見れば、その森から出て参って、小児《こども》たちに何か菓子ようのものを与えたが、何か、いつも日の中《うち》から森の奥に潜みおって、夜ふけを待って呪詛《のろ》うたかな。
お沢 はい……あの……もうおかくしは申しません。お山の下の恐しい、あの谿河《たにがわ》を渡りました。村方《むらかた》に、知るべのものがありまして、其処《そこ》から通いましたのでございます。
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神楽の人々|囁《ささや》き合う。
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禰宜 知っておるかな。
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――「なあ。」「よ。」「うむ。」「あれだ。」口々に――
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後見 何が、お霜婆《しもばあ》さんの、ほれ、駄菓子屋の奥に、ちらちらする、白いものがあっけえ。町での御恩人ぞい。恥しい病《やまい》さあって隠れてござるで、ほっても垣《かき》のぞきなどせまいぞ、と婆さんが言うだでな。
笛の男 癩《かったい》ずらか。
太鼓の男 恥しい病ちゅうで。
おかめの面の男 ほんでも、孕《はら》んだ娘だべか。
禰宜 女子《おなご》が正しい懐妊は恥ではないのじゃ。それでは、毎晩、真夜中に、あの馬も通らぬ一本橋を渡ったじゃなあ。
道化の面の男 女の一念だで一本橋を渡らいでかよ。ここら奥の谿河《たにがわ》だけれど、ずっと川下《かわしも》で、東海道の大井川《
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