は冷汗|掻《か》いたげな。や、それでも召ものの裾《すそ》に、草鞋《わらじ》が引《ひっ》かかりましたように、するすると嘉吉に抱かれて、前ざまに行《ゆ》かっしゃったそうながの、お前様、飛んでもない、」
「怪《け》しからん事を――またしたもんです。」
 と小次郎法師は苦り切る。

       十一

 姥《うば》は分別あり顔に、
「一目見たら、その御|容子《ようす》だけでなりと、分りそうなものでござります。
 貴女《あなた》が神にせよ、また人間にしました処で、嘉吉づれが口を利かれます御方ではござりませぬ。そうでなくとも、そんな御恩を被《こうむ》ったでござりますもの。拝むにも、後姿でのうては罰の当ります処、悪党なら、お前様、発心のしどころを。
 根が悪徒ではござりませぬ、取締りのない、ただぼうと、一夜酒《ひとよざけ》が沸いたような奴《やっこ》殿じゃ。薄《すすき》も、蘆《あし》も、女郎花《おみなえし》も、見境《みさかい》はござりませぬ。
 髪が長けりゃ女じゃ、と合点して、さかりのついた犬同然、珠を頂いた御恩なぞも、新屋の姉《あね》えに、藪《やぶ》の前で、牡丹餅《ぼたもち》半分分けてもろうた了簡《りょうけん》じゃで、のう、食物《たべもの》も下されば、お情《なさけ》も下さりょうぐらいに思うて、こびりついたでござります。
 弁天様の御姿にも、蠅がたかれば、お鬱陶《うっと》しい。
 通りがかりにただ見ては、草がくれの路と云うても、旱《ひでり》に枯れた、岩の裂目とより見えませぬが、」
 姥は腰を掛けたまま。さて、乗出すほどの距離でもなかった――
「直《じ》きその、向う手を分け上りますのが、山一ツ秋谷在へ近道でござりまして、馬車《うまくるま》こそ通いませぬけれども、私《わし》などは夜さり店を了《しま》いますると、お菓子、水菓子、商物《あきないもの》だけを風呂敷包、ト背負《しょい》いまして、片手に薬缶《やかん》を提げたなりで、夕焼にお前様、影をのびのび長々と、曲った腰も、楽々小屋へ帰りますがの。
 貴女はそこへ。……お裾が靡《なび》いた。
 これは不思議、と爺どのが、肩を半分乗出す時じゃ、お姿が波を離れて、山の腹へすらりと高うなったと思うと、はて、何を嘉吉がしくさりましたか。
 屹《きっ》と振向かっしゃりました様子じゃっけ、お顔の団扇が飜然《ひらり》と飜《かえ》って、斜《ななめ》に浴びせて、嘉吉の横顔へびしりと来たげな。
 きゃっ!と云うと刎《はね》返って、道ならものの小半町、膝と踵《かかと》で、抜いた腰を引摺《ひきず》るように、その癖、怪飛《けしと》んで遁《に》げて来る。
 爺どのは爺どので、息を詰めた汗の処へ、今のきゃあ!で転倒《てんどう》して、わっ、と云うて山の根から飛出す処へ、胸を頭突《ずつき》に来るように、ドンと嘉吉が打附《ぶつか》ったので、両方へ間を置いて、この街道の真中《まんなか》へ、何と、お前様、見られた図ではござりますか。
 二人とも尻餅じゃ。
(ど、どうした野郎、)と小腹も立つ、爺どのが恐怖紛《おっかなまぎ》れに、がならっしゃると、早や、変でござりましたげな、きょろん、とした眼《がん》の見据えて、私《わし》が爺の宰八の顔をじろり。
(ば、ば、ば、)
(ええ!)
(怪物《ばけもの》!)と云うかと思うと、ひょいと立って、またばたばたと十足《とあし》ばかり、駆戻って、うつむけに突んのめったげにござりまして、のう。
 爺どのは二度|吃驚《びっくり》、起《た》ちかけた膝がまたがっくりと地面《じべた》へ崩れて、ほっと太い呼吸《いき》さついた。かっとなって浪の音も聞えませぬ。それでいて――寂然《しん》として、海ばかり動きます耳に響いて、秋谷へ近路のその山づたい。鈴虫が音《ね》を立てると、露が溢《こぼ》れますような、佳《い》い声で、そして物凄《ものすご》う、
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(ここはどこの細道じゃ、
       細道じゃ。
 天神さんの細道じゃ、
       細道じゃ。
 少し通して下さんせ、下さんせ。)
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 とあわれに寂しく、貴女の声で聞えました。
 その声が遠くなります、山の上を、薄綿で包みますように、雲が白くかかりますと、音が先へ、颯《さ》あ――とたよりない雨が、海の方へ降って来て、お声は山のうらかけて、遠くなって行《ゆ》きますげな。
 前刻《さっき》見た兎《う》の毛の雲じゃ、一雨来ようと思うた癖に、こりゃ心ない、荷が濡れよう、と爺どのは駆けて戻って、がッたり車を曳出《ひきだ》しながら、村はずれの小店からまず声をかけて、嘉吉めを見せにやります。
 何か、その唄のお声が、のう、十年五十年も昔聞いたようにもあれば、こう云う耳にも、響くと云います。
 遠慮すると見えまして、余り委《くわ》しい事は申しませぬが、
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