空の森は暗し、爺どのは、身震いをしたと申しますがの。」

       十

「利かぬ気の親仁《おやじ》じゃ、お前様、月夜の遠見に、纏《まと》ったものの形は、葦簀張《よしずばり》の柱の根を圧《おさ》えて置きます、お前様の背後《うしろ》の、その石※[#「石+鬼」、第4水準2−82−48]《いしころ》か、私《わし》が立掛けて置いて帰ります、この床几《しょうぎ》の影ばかり。
 大崩壊《おおくずれ》まで見通しになって、貴女《あなた》の姿は、蜘蛛巣《くものす》ほども見えませぬ。それをの、透かし透かし、山際に附着《くッつ》いて、薄墨引いた草の上を、跫音《あしおと》を盗んで引返《ひっかえ》しましたげな。
 嘉吉をどう始末さっしゃるか、それを見届けよう、という、爺《じじい》どの了簡《りょうけん》でござります。
 荷車はの、明神様石段の前を行《ゆ》けば、御存じの三崎街道、横へ切れる畦道《あぜみち》が在所の入口でござりますで、そこへ引込んだものでござります。人気も穏《おだやか》なり、積んだものを見たばかりで、鶴谷様御用、と札の建ったも同一《おなじ》じゃで、誰も手の障《さ》え人《て》はござりませぬで。
 爺どのは、這《は》うようにして、身体《からだ》を隠して引返したと言いましけ。よう姿が隠さりょう、光った天窓《あたま》と、顱巻《はちまき》の茜色《あかねいろ》が月夜に消えるか。主《ぬし》ゃそこで早や、貴女《あなた》の術で、活《い》きながら鋏《はさみ》の紅《あか》い月影の蟹《かに》になった、とあとで村の衆にひやかされて、ええ、措《お》けやい、気味の悪い、と目をぱちくり、泡を吹いたでござりますよ。
 笑うてやらっしゃりませ。いけ年を仕《つかまつ》って、貴女が、去《い》ね、とおっしゃったを止《よ》せば可《よ》いことでござります。」
 法師はかくと聞いて眉を顰《ひそ》め、
「笑い事ではない。何かお爺様《じいさん》に異状でもありましたか。」
「お目こぼしでござります、」
 と姥は謹んだ、顔色《かおつき》して、
「爺どのはお庇《かげ》と何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。」
「じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。」
「それも心がらでござります。はじめはお前様、貴女《あなた》が御親切に、勿体ない……お手ずから薫《かおり》の高い、水晶を噛《か》みますような、涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、……この手|桶《おけ》から、」……
 と姥は見返る。捧げた心か、葦簀《よしず》に挟んで、常夏《とこなつ》の花のあるが下《もと》に、日影涼しい手桶が一個《ひとつ》、輪の上に、――大方その時以来であろう――注連《しめ》を張ったが、まだ新しい。
「水も汲《く》んで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人の許《とこ》へ帰れずば、これを代《しろ》に言訳して、と結構な御宝を。……
 それがお前様、真緑《まみどり》の、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。
 爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目を密《そっ》と出して、見た時じゃったと申します。
 こう、貴女がお持ちなさりました指の尖《さき》へ、ほんのりと蒼《あお》く映って、白いお手の透いた処は、大《おおき》な蛍をお撮《つま》みなさりましたようじゃげな。
 貴女のお身体《からだ》に附属《つい》ていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉が賽《さい》ころを振る掌《てのひら》の中へ、消えましたとの。
 それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し俯向《うつむ》いて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、お髪《ぐし》の黒い、前の方へ、軽く簪《かんざし》をお挿《さし》なされて、お草履か、雪駄《せった》かの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に女浪《めなみ》のように歩行《ある》かっしゃる。
 これでまた爺どのは悚然《ぞっ》としたげな。のう、いかな事でも、明神様の知己《ちかづき》じゃ言わしったは串戯《じょうだん》で、大方は、葉山あたりの誰方《どなた》のか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。
 今|行《ゆ》かっしゃるのは反対《あべこべ》に秋谷の方じゃ。……はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。
 嘉吉の奴《やつ》がの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠は掴《つか》む、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて歩行《ある》かっしゃるで、機織場《はたおりば》の姉《ねえ》やが許《とこ》へ、夜さり、畦道《あぜみち》を通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、果《はて》は増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、背後《うしろ》から抱きつきおる。
 爺どの
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