涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、……この手|桶《おけ》から、」……
 と姥は見返る。捧げた心か、葦簀《よしず》に挟んで、常夏《とこなつ》の花のあるが下《もと》に、日影涼しい手桶が一個《ひとつ》、輪の上に、――大方その時以来であろう――注連《しめ》を張ったが、まだ新しい。
「水も汲《く》んで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人の許《とこ》へ帰れずば、これを代《しろ》に言訳して、と結構な御宝を。……
 それがお前様、真緑《まみどり》の、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。
 爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目を密《そっ》と出して、見た時じゃったと申します。
 こう、貴女がお持ちなさりました指の尖《さき》へ、ほんのりと蒼《あお》く映って、白いお手の透いた処は、大《おおき》な蛍をお撮《つま》みなさりましたようじゃげな。
 貴女のお身体《からだ》に附属《つい》ていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉が賽《さい》ころを振る掌《てのひら》の中へ、消えましたとの。
 それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し俯向《うつむ》いて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、お髪《ぐし》の黒い、前の方へ、軽く簪《かんざし》をお挿《さし》なされて、お草履か、雪駄《せった》かの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に女浪《めなみ》のように歩行《ある》かっしゃる。
 これでまた爺どのは悚然《ぞっ》としたげな。のう、いかな事でも、明神様の知己《ちかづき》じゃ言わしったは串戯《じょうだん》で、大方は、葉山あたりの誰方《どなた》のか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。
 今|行《ゆ》かっしゃるのは反対《あべこべ》に秋谷の方じゃ。……はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。
 嘉吉の奴《やつ》がの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠は掴《つか》む、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて歩行《ある》かっしゃるで、機織場《はたおりば》の姉《ねえ》やが許《とこ》へ、夜さり、畦道《あぜみち》を通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、果《はて》は増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、背後《うしろ》から抱きつきおる。
 爺どの
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