な可怖《おそろし》い只中《ただなか》に、よく御辛抱なさいます、実に大胆でおいでなさる。」
「私くらい臆病《おくびょう》なものはありません。……臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。」
「さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より目的《めあて》で参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思召《おぼしめし》で。」
「どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。」
「それでは、外に、」
「ええ、望み――と申しますと、まだ我《が》があります。実は願事があって、ここにこうして、参籠《さんろう》、通夜をしておりますようなものです。」

       二十九

「それが貴僧《あなた》、前刻《さっき》お話をしかけました、あの手毬《てまり》の事なんです。」
「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」
「いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。」
 と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一膝《ひとひざ》進めたのである。
「大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩行《ある》きますのも、詮《せん》ずる処、ある意味の手毬唄を……」
「手毬唄を。……いかがな次第でございます。」
「夢とも、現《うつつ》とも、幻とも……目に見えるようで、口には謂《い》えぬ――そして、優しい、懐《なつか》しい、あわれな、情のある、愛の籠《こも》った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然《ぞっ》とする、胸を掻※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かきむし》るような、あの、恍惚《うっとり》となるような、まあ例えて言えば、芳《かんば》しい清らかな乳を含みながら、生れない前《さき》に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬《あこが》れて、それを聞きたいと思いますんです。」
 この数分時の言《ことば》の中《うち》に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の音《ね》、木《こ》の葉の囁《ささや》きまで、稲妻のごとく胸の裡《うち》に繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、颯《さっ》と金字《こんじ》紺泥《こんでい》に瞳に描いて試みたが、
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