草あやめ
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)江戸児《えどつこ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)其の声|恰《あたか》も
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「てへんに劣」、第3水準1−84−77、215−15]《むし》り
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)へい/\召しましと
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」。
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二丁目の我が借家の地主、江戸児《えどつこ》にて露地を鎖さず、裏町の木戸には無用の者|入《い》るべからずと式《かた》の如く記したれど、表門には扉さへなく、夜が更けても通行勝手なり。但《たゞ》知己《ちかづき》の人の通り抜け、世話に申す素通りの無用たること、我が思《おもひ》もかはらず、然《さ》りながらお附合五六軒、美人なきにしもあらずと雖《いへど》も、濫《みだり》に垣間見《かいまみ》を許さず、軒に御神燈の影なく、奥に三味《さみ》の音《ね》の聞ゆる類《たぐひ》にあらざるを以《もつ》て、頬被《ほゝかぶり》、懐手《ふところで》、湯上りの肩に置手拭《おきてぬぐひ》などの如何《いかゞ》はしき姿を認めず、華主《とくい》まはりの豆府屋、八百屋、魚屋、油屋の出入《しゆつにふ》するのみ。
朝まだきは納豆売、近所の小学に通ふ幼きが、近路《ちかみち》なれば五ツ六ツ袂《たもと》を連ねて通る。お花やお花、撫子《なでしこ》の花や矢車の花売、月の朔日《ついたち》十五日には二人三人呼び以《も》て行くなり。やがて足駄《あしだ》の歯入《はいれ》、鋏磨《はさみとぎ》、紅梅の井戸端に砥石《といし》を据ゑ、木槿《むくげ》の垣根に天秤《てんびん》を下ろす。目黒の筍売《たけのこうり》、雨の日に蓑《みの》着て若柳の台所を覗くも床《ゆか》しや。物干の竹二日月に光りて、蝙蝠《かうもり》のちらと見えたる夏もはじめつ方、一夕《あるゆふべ》、出窓の外を美しき声して売り行くものあり、苗や玉苗、胡瓜の苗や茄子の苗と、其の声|恰《あたか》も大川の朧に流るゝ今戸あたりの二上《にあが》りの調子に似たり。一寸《ちよつと》苗屋さんと、窓から呼べば引返《ひつかへ》すを、小さき木戸を開けて庭に通せば、潜《くゞ》る時、笠を脱ぎ、若き男の目つき鋭からず、頬の円《まろ》きが莞爾莞爾《にこにこ》して、へい/\召しましと荷を下ろし、穎割葉《かひわりば》の、蒼き鶏冠《とさか》の、いづれも勢よきを、日に焼けたる手して一ツ一ツ取出すを、としより、弟、またお神楽座《かぐらざ》一座の太夫、姓は原口、名は秋さん、呼んで女形《をんながた》といふ容子《ようす》の可《い》いのと、皆縁側に出でて、見るもの一ツとして欲しからざるは無きを、初鰹は買はざれども、昼のお肴なにがし、晩のお豆府いくらと、先《ま》づ帳合《ちやうあひ》を〆《し》めて、小遣の中より、大枚一歩が処《ところ》、苗七八種をずばりと買ふ、尤《もつと》も五坪《いつつぼ》には過ぎざる庭なり。
隠元《いんげん》、藤豆《ふぢまめ》、蓼《たで》、茘枝《れいし》、唐辛《たうがらし》、所帯の足《たし》と詈《のゝし》りたまひそ、苗売の若衆一々名に花を添へていふにこそ、北海道の花茘枝、鷹の爪の唐辛、千成《せんな》りの酸漿《ほうづき》、蔓なし隠元、よしあしの大蓼、手前商ひまするものは、皆玉揃ひの唐黍《たうもろこし》と云々《うんぬん》。
朝顔の苗、覆盆子《いちご》の苗、花も実もある中に、呼声の仰々しきが二ツありけり、曰く牡丹咲の蛇の目菊、曰くシヽデンキウモン也《なり》。愚弟|直《たゞち》に聞き惚《と》れて、賢兄《にいさん》お買《か》ひな/\と言ふ、こゝに牡丹咲の蛇の目菊なるものは所謂《いはゆる》蝦夷菊《えぞぎく》也。これは……九代の後胤《こういん》平の、……と平家の豪傑が名乗れる如く、のの字二ツ附けたるは、売物に花の他ならず。シヽデンキウモンに至りては、其《そ》の何等《なんら》の物なるやを知るべからず、苗売に聞けば類なきしをらしき花ぞといふ、蝦夷菊はおもしろし、其の花しをらしといふに似ず、厳《いかめ》しくシヽデンキウモンと呼ぶを嘲けるにあらねど、此《こ》の二種、一歩の外、別に五銭なるを如何《いかん》せん。
然《しか》れども甚六なるもの、豈夫《あにそれ》白銅一片に辟易して可ならんや。即《すなは》ち然り気なく、諭して曰く、汝《なんぢ》若輩、シヽデンキウモンに私淑したりや、金毛九尾ぢやあるまいしと、二階に遁《に》げ上らんとする袂を捕へて、可いぢやないかお買ひよ、一ツ咲いたつて花ぢやないか。旦那だまされたと思し召してと、苗売も勧めて止まず、僕が植ゑるからと女形も頻
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