し》の其《そ》の柳《やなぎ》の根《ね》に薄墨色《うすずみいろ》に立《た》つて居《ゐ》る……或《あるひ》は又《また》……此處《こゝ》の土袋《どぶつ》と同一《おなじ》やうな男《をとこ》が、其處《そこ》へも出《で》て來《き》て、白身《はくしん》の婦人《をんな》を見《み》て居《ゐ》るのかも知《し》れません。
 私《わたし》も其《そ》の一人《ひとり》でせうね……
(や、待《ま》てい。)
 青膨《あをぶく》れが、痰《たん》の搦《から》んだ、ぶやけた聲《こゑ》して、早《は》や行掛《ゆきかゝ》つた私《わたし》を留《と》めた……
(見《み》て貰《もれ》えたいものがあるで、最《も》う直《ぢき》ぢやぞ。)と、首《くび》をぐたりと遣《や》りながら、横柄《わうへい》に言《い》ふ。……何《なん》と、其《そ》の兩足《りやうあし》から、下腹《したばら》へ掛《か》けて、棕櫚《しゆろ》の毛《け》の蚤《のみ》が、うよ/\ぞろ/\……赤蟻《あかあり》の列《れつ》を造《つく》つてる……私《わたし》は立窘《たちすく》みました。
 ひら/\、と夕空《ゆふぞら》の雲《くも》を泳《およ》ぐやうに柳《やなぎ》の根《ね》から舞上《まひあが》つた、あゝ、其《それ》は五位鷺《ごゐさぎ》です。中島《なかじま》の上《うへ》へ舞上《まひあが》つた、と見《み》ると輪《わ》を掛《か》けて颯《さつ》と落《おと》した。
(ひい。)と引《ひ》く婦《をんな》の聲《こゑ》。鷺《さぎ》は舞上《まひあが》りました。翼《つばさ》の風《かぜ》に、卯《う》の花《はな》のさら/\と亂《みだ》るゝのが、婦《をんな》が手足《てあし》を畝《うね》らして、身《み》を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くに宛然《さながら》である。
 今《いま》考《かんが》へると、それが矢張《やつぱ》り、あの先刻《さつき》の樹《き》だつたかも知《し》れません。同《おな》じ薫《かをり》が風《かぜ》のやうに吹亂《ふきみだ》れた花《はな》の中《なか》へ、雪《ゆき》の姿《すがた》が素直《まつすぐ》に立《た》つた。が、滑《なめら》かな胸《むね》の衝《つ》と張《は》る乳《ちゝ》の下《した》に、星《ほし》の血《ち》なるが如《ごと》き一雫《ひとしづく》の鮮紅《からくれなゐ》。絲《いと》を亂《みだ》して、卯《う》の花《はな》が眞赤《まつか》に散《ち》る、と其《そ》の淡紅《うすべに》の波《なみ》の中《なか》へ、白《しろ》く眞倒《まつさかさま》に成《な》つて沼《ぬま》に沈《しづ》んだ。汀《みぎは》を廣《ひろ》くするらしい寂《しづ》かな水《みづ》の輪《わ》が浮《う》いて、血汐《ちしほ》の綿《わた》がすら/\と碧《みどり》を曳《ひ》いて漾《たゞよ》ひ流《なが》れる……
(あれを見《み》い、血《ち》の形《かたち》が字《じ》ぢやらうが、何《なん》と讀《よ》むかい。)
 ――私《わたし》が息《いき》を切《き》つて、頭《かぶり》を掉《ふ》ると、
(分《わか》らんかい、白痴《たはけ》めが。)と、ドンと胸《むね》を突《つ》いて、突倒《つきたふ》す。重《おも》い力《ちから》は、磐石《ばんじやく》であつた。
(又《また》……遣直《やりなほ》しぢや。)と呟《つぶや》きながら、其《そ》の蚤《のみ》の巣《す》をぶら下《さ》げると、私《わたし》が茫然《ばうぜん》とした間《あひだ》に、のそのそ、と越中褌《ゑつちうふんどし》の灸《きう》のあとの有《あ》る尻《しり》を見《み》せて、そして、やがて、及腰《およびごし》の祠《ほこら》の狐格子《きつねがうし》を覗《のぞ》くのが見《み》えた。
(奧《おく》さんや、奧《おく》さんや――蚤《のみ》が、蚤《のみ》が――)
 と腹《はら》をだぶ/\、身悶《みもだ》えをしつゝ、後退《あとじさ》りに成《な》つた。唯《と》、どしん、と尻餅《しりもち》をついた。が、其《そ》の頭《あたま》へ、棕櫚《しゆろ》の毛《け》をずぼりと被《かぶ》る、と梟《ふくろふ》が化《ば》けたやうな形《かたち》に成《な》つて、其《そ》のまゝ、べた/\と草《くさ》を這《は》つて、縁《えん》の下《した》へ這込《はひこ》んだ。――
 蝙蝠傘《かうもりがさ》を杖《つゑ》にして、私《わたし》がひよろ/\として立去《たちさ》る時《とき》、沼《ぬま》は暗《くら》うございました。そして生《なま》ぬるい雨《あめ》が降出《ふりだ》した……
(奧《おく》さんや、奧《おく》さんや。)
 と云《い》つたが、其《そ》の土袋《どぶつ》の細君《さいくん》ださうです。土地《とち》の豪農《がうのう》何某《なにがし》が、内證《ないしよう》の逼迫《ひつぱく》した華族《くわぞく》の令孃《れいぢやう》を金子《かね》にかへて娶《めと》つたと言《い》ひます。御殿《ごてん》づくりでかしづいた、が、其《そ》の姫君《ひめぎみ》は可恐
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