學士《がくし》は手巾《ハンケチ》で、口《くち》を蔽《おほ》うて、一寸《ちよつと》額《ひたひ》を壓《おさ》へた――
「――其處《そこ》が閨《ねや》で、洋式《やうしき》の寢臺《ねだい》があります。二人寢《ふたりね》の寛《ゆつた》りとした立派《りつぱ》なもので、一面《いちめん》に、光《ひかり》を持《も》つた、滑《なめ》らかに艶々《つや/\》した、絖《ぬめ》か、羽二重《はぶたへ》か、と思《おも》ふ淡《あは》い朱鷺色《ときいろ》なのを敷詰《しきつ》めた、聊《いさゝ》か古《ふる》びては見《み》えました。が、それは空《そら》が曇《くも》つて居《ゐ》た所爲《せゐ》でせう。同《おな》じ色《いろ》の薄掻卷《うすかいまき》を掛《か》けたのが、すんなりとした寢姿《ねすがた》の、少《すこ》し肉附《にくづき》を肥《よ》くして見《み》せるくらゐ。膚《はだ》を蔽《おほ》うたとも見《み》えないで、美《うつくし》い女《をんな》の顏《かほ》がはらはらと黒髮《くろかみ》を、矢張《やつぱ》り、同《おな》じ絹《きぬ》の枕《まくら》にひつたりと着《つ》けて、此方《こちら》むきに少《すこ》し仰向《あをむ》けに成《な》つて寢《ね》て居《ゐ》ます。のですが、其《それ》が、黒目勝《くろめがち》な雙《さう》の瞳《ひとみ》をぱつちりと開《あ》けて居《ゐ》る……此《こ》の目《め》に、此處《こゝ》で殺《ころ》されるのだらう、と餘《あま》りの事《こと》に然《さ》う思《おも》ひましたから、此方《こつち》も熟《じつ》と凝視《みつめ》ました。
 少《すこ》し高過《たかす》ぎるくらゐに鼻筋《はなすぢ》がツンとして、彫刻《てうこく》か、練《ねり》ものか、眉《まゆ》、口許《くちもと》、はつきりした輪郭《りんくわく》と云《い》ひ、第一《だいいち》櫻色《さくらいろ》の、あの、色艶《いろつや》が、――其《それ》が――今《いま》の、あの電車《でんしや》の婦人《ふじん》に瓜二《うりふた》つと言《い》つても可《い》い。
 時《とき》に、毛《け》一筋《ひとすぢ》でも動《うご》いたら、其《そ》の、枕《まくら》、蒲團《ふとん》、掻卷《かいまき》の朱鷺色《ときいろ》にも紛《まが》ふ莟《つぼみ》とも云《い》つた顏《かほ》の女《をんな》は、芳香《はうかう》を放《はな》つて、乳房《ちぶさ》から蕊《しべ》を湧《わ》かせて、爛漫《らんまん》として咲《さ》くだらうと思《お
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