か》る。――やがて、此《これ》が、野《の》の一面《いちめん》の草《くさ》を伝《つたは》つて、次第《しだい》にひら/\と、麓《ふもと》に下《お》りて遊行《ゆぎやう》しやう。……さて、日《ひ》も当《あた》れば、北国《ほくこく》の山中《さんちゆう》ながら、人里《ひとざと》の背戸《せど》垣根《かきね》に、神《かみ》が咲《さ》かせた桃《もゝ》桜《さくら》が、何処《どこ》とも無《な》く空《そら》に映《うつ》らう。まだ、朝早《あさまだ》き、天守《てんしゆ》の上《うへ》から野《の》をかけて箕《み》の形《かたち》に雲《くも》が簇《むらが》つて、処々《ところ/″\》物凄《ものすさま》じく渦《うづ》を巻《まい》て、霰《あられ》も迸《ほとばし》つて出《で》さうなのは、風《かぜ》が動《うご》かすのではない。四辺《あたり》は寂寞《ひつそり》して居《ゐ》る……峰《みね》に当《あた》り、頂《いたゞき》に障《さは》つて、山々《やま/\》のために揺《ゆ》れるのである。
雲《くも》の動《うご》く時《とき》、二人《ふたり》の形《かたち》は大《おほ》きく成《な》つた。静《じつ》とする時《とき》、渠等《かれら》の姿《すがた》は小《ちひ》さく成《な》つた。――飛騨《ひだ》の山《やま》の此《こ》のあたりは、土地《とち》が呼吸《こきう》をするのかも分《わか》らぬ。
雪枝《ゆきえ》は伸上《のびあが》つた時《とき》、膝《ひざ》を草《くさ》に支《つ》いて居《ゐ》た。
「其《そ》の時《とき》来懸《きかゝ》つたのは、何《ど》うも、此《こ》の原《はら》の、向《むか》ふの取着《とつゝき》であつたらしい。
『お城趾《しろあと》の方《はう》さ行《い》つては成《な》んねえだ。』と云《い》つて其《そ》の男《をとこ》が引取《ひきと》めました……私《わたくし》は家内《かない》の姿《すがた》を高《たか》い山《やま》の端《は》で見失《みうしな》つたが、何《ど》うも、向《むか》ふが空《そら》へ上《あが》つたのではなく、自分《じぶん》が谷底《たにそこ》へ落《お》ちてたらしい。其処《そこ》で疵《きづ》だらけに成《な》つて漸々《やう/\》出《で》て来《き》た処《ところ》が、此《こ》の取着《とつゝ》きで、以前《いぜん》夫婦《ふうふ》づれで散歩《さんぽ》に出《で》た場所《ばしよ》とは、全然《まるで》方角《はうがく》が違《ちが》う、――御存《ごぞん》じの通《とほ》り、温泉《をんせん》は左右《さいう》へ見上《みあ》げるやうな山《やま》を控《ひか》へた、ドン底《ぞこ》から湧《わ》きます。
で、婆《ばあ》さんの店《みせ》の有《あ》つたのは南《みなみ》の坂《さか》で、此《こ》の城趾《しろあと》は北《きた》の山路《やまみち》から来《く》るのでせう。
土地《とち》の男《をとこ》に様子《やうす》を聞《き》いて、
『あゝ、魅《つま》まれた……魅《つま》まれたんだ。いや、薄髯《うすひげ》の生《は》へた面《つら》で、何《なん》とも面目《めんぼく》次第《しだい》もない。』
と頻《しきり》に面目《めんもく》ながる癖《くせ》に、あは/\得意《とくい》らしい高笑《たかわら》ひを行《や》つた。家内《かない》の無事《ぶじ》を祝福《しゆくふく》する心《こゝろ》では、自分《じぶん》の魅《み》せられたのを、却《かへ》つて幸福《かうふく》だと思《おも》つて喜《よろこ》んだんです。
『豪《えら》い、東京《とうきやう》の客《きやく》を魅《だま》すのは豪儀《がうぎ》だ。ひよい、と抱《だ》いて温泉宿《をんせんやど》の屋根越《やねごし》に山《やま》を一《ひと》つ、まるで方角《はうがく》の違《ちが》つた処《ところ》へ、私《わたし》を持《も》つて来《き》た手際《てぎは》と云《い》ふのは無《な》い。何《なに》か、此《こ》の辺《へん》に、有名《いうめい》な狐《きつね》でも居《ゐ》るか。』
と酔《よ》つぱらひのやうな言《こと》を云《い》つて、ひよろ/\為《し》ながら、其《そ》の男《をとこ》に導《みちび》かれて引返《ひきかへ》す。
『狐《きつね》や狸《たぬき》ではござりましねえ、お天守《てんしゆ》にござる天狗様《てんぐさま》だのエ、時々《とき/″\》悪戯《いたづら》をさつしやります。』
『何《なに》天狗《てんぐ》。』
と云《い》ふと慌《あはたゞ》しく袂《たもと》を曳《ひ》いて、
『えゝ、大《おほき》な声《こゑ》をさつしやりますな、聞《き》こえるがのエ』と、蒼《あを》い顔《かほ》して、其《そ》の男《をとこ》は、足許《あしもと》を樹《き》の梢《こずゑ》から透《す》いて見《み》える、燈《ともしび》の影《かげ》を指《ゆびさ》したんです。」
谺《こだま》
十五
で、其処《そこ》が温泉宿《をんせんやど》だ、と教《をし》へて、山間《やまあひ》の崖《がけ》を樹《き》の茂《しげ》つた細《ほそ》い路《みち》へ、……背負《せを》つて居《ゐ》た、丈《たけ》の伸《の》びた雑木《ざうき》の薪《まき》を、身躰《からだ》ごと横《よこ》にして、ざつと入《はい》つて行《ゆ》く。
しばらく、ざわ/\と鳴《な》つて居《ゐ》た。
急《きふ》に何《なん》だか寂《さび》しく成《な》つて、酔《ゑひ》ざめのやうな身震《みぶる》ひが出《で》た。急《いそ》いで、燈火《ともしび》を当《あて》に駆下《かけお》りる、と思《おも》ひがけず、往《ゆき》には覚《おぼ》えもない石壇《いしだん》があつて、其《それ》を下切《おりき》つた処《ところ》が宿《やど》の横《よこ》を流《なが》れる矢《や》を射《ゐ》るやうな谿河《たにがは》だつた。――驚《おどろ》いたのは、山《やま》が二《ふた》わかれの真中《まんなか》を、温泉宿《をんせんやど》を貫《つらぬ》いて流《なが》れる、其《そ》の川《かは》を、何時《いつ》の間《ま》に越《こ》へて、此《こ》の城趾《しろあと》の方《はう》へ来《き》たか少《すこ》しも覚《おぼ》えが無《な》い。
岸《きし》づたひに、岩《いは》を踏《ふ》んで後戻《あともど》りを為《し》て、橋《はし》の取着《とつゝき》の宿《やど》へ帰《かへ》つた、――此《これ》は前刻《さつき》渡《わた》つて、向《むか》ふ越《ごし》で、山路《やまみち》の方《はう》へ、あの婆《ばあ》さんの店《みせ》へ出《で》た橋《はし》だつた。
『お帰《かへ》りなさいまし。』
と向《むか》ふ廊下《らうか》から早足《はやあし》で、すた/\来懸《きかゝ》つた女中《ぢよちゆう》が一人《ひとり》、雪枝《ゆきえ》を見《み》て立停《たちと》まつた。
『御緩《ごゆつく》り様《さま》で、』と左側《ひだりがは》の、畳《たゝみ》五十畳《ごじふでふ》計《ばか》りの、だゞつ広《ぴろ》い帳場《ちやうば》、……真中《まんなか》に大《おほき》な炉《ろ》を切《き》つた、其《そ》の自在留《じざいとめ》の、ト尾鰭《をひれ》を刎《は》ねた鯉《こひ》の蔭《かげ》から、でつぷり肥《ふと》つた赤《あか》ら顔《がほ》を出《だ》して亭主《ていしゆ》が言《い》ふ。
『同伴《つれ》は帰《かへ》つたらうね。』と聞《き》いた時《とき》、雪枝《ゆきえ》は其《そ》の間違《まちがひ》の無《な》い事《こと》を信《しん》じながら、何《なん》だか胸《むね》がドキ/\した。
『奥方様《おくがたさま》で、はゝ、何《なに》や、一寸《ちよいと》お見申《みまを》せ。』と頤《あご》を向《む》けると、其処《そこ》に居《ゐ》た女中《ぢよちゆう》が、
『御一所《ごいつしよ》では無《な》かつたのでございますか。』
で、ばた/\と廊下《らうか》を、直《す》ぐに二階《にかい》へ駆上《かけあが》つた。
何故《なぜ》か雪枝《ゆきえ》は他人《たにん》を訪問《はうもん》に来《き》たやうな心持《こゝろもち》に成《な》つて、うつかり框際《かまちぎは》の広土間《ひろどま》に突立《つゝた》つて居《ゐ》た。
山路《やまみち》から、後《あと》を跟《つ》けて来《き》たらしい嵐《あらし》が、袂《たもと》をひら/\と煽《あふ》つて、颯《さつ》と炉傍《ろばた》へ吹込《ふきこ》むと、燈《ともしび》が下伏《したぶせ》に暗《くら》く成《な》つて、炉《ろ》の中《なか》が明《あかる》く燃《も》える。これが赫《くわつ》と、壁《かべ》に並《なら》んだ提灯《ちやうちん》の箱《はこ》に映《うつ》る、と温泉《いでゆ》の薫《かをり》が芬《ぷん》とした。
五六段《ごろくだん》階子《はしご》を残《のこ》して、女中《ぢよちゆう》が廊下《らうか》の高《たか》い処《ところ》へ顔《かほ》を出《だ》して、
『まだ、お帰《かへ》り遊《あそ》ばしません。』
『下《お》りて来《き》て、ちやんと申《まを》さぬかい、何《なん》ぢや、不作法《ぶさはふ》な。』と亭主《ていしゆ》が炉端《ろばた》から上睨《うはにら》みを行《や》る。
雪枝《ゆきえ》は一文字《いちもんじ》に其《そ》の前《まへ》を突切《つゝき》つて、階子段《はしごだん》を駆上《かけあが》り状《ざま》に、女中《ぢよちゆう》と摺違《すれちが》つて、
『そんな筈《はづ》は無《な》い。そんな、お前《まへ》、』と躾《たしな》めるやうに言《い》ひ/\飛上《とびあが》つたのであつた。
『それともお湯《ゆ》へお出《い》でなさいましてですか、お座敷《ざしき》には居《ゐ》らつしやいませんですよ。』と小走《こばし》りに跟《つ》いて来《く》る。
固《もと》より女中《ぢよちゆう》が串戯《ぢやうだん》を言《い》ふわけは無《な》い。居《ゐ》ないものは居《ゐ》ないので、座敷《ざしき》を見《み》ると、あとを片附《かたづ》けて掃出《はきだ》したらしく、きちんと成《な》つて、点《つ》けたての真《しん》を細《ほそ》めた台洋燈《だいらんぷ》が、影《かげ》を大《おほ》きく床《とこ》の間《ま》へ這《は》はして、片隅《かたすみ》へ二間《ふたま》に畳《たゝ》んだ六枚折《ろくまいをり》の屏風《びやうぶ》が如何《いか》にも寂《さび》しい。
而《そ》して誰《たれ》も居《ゐ》ない八畳《はちでふ》の真中《まんなか》に、其《そ》の双六巌《すごろくいは》に似《に》たと言《い》ふ紫縞《むらさきじま》の座蒲団《ざぶとん》が二枚《にまい》、対坐《さしむかひ》に据《す》えて有《あ》つたのを一目《ひとめ》見《み》ると、天窓《あたま》から水《みづ》を浴《あ》びたやうに慄然《ぞつ》とした。此処《こゝ》へも颯《さつ》と一嵐《ひとあらし》、廊下《らうか》から追《お》つて来《き》て座敷《ざしき》を吹抜《ふきぬ》けて雨戸《あまど》をカタリと鳴《な》らす。
恁《か》うして、お浦《うら》に別《わ》かれるのが極《きま》つた運命《うんめい》では無《な》からうかと思《おも》つた……
「浴室《ゆどの》だ、浴室《ゆどの》だ。見《み》ておいで。と女中《ぢよちゆう》を追遣《おひや》つて、倒《たふ》れ込《こ》むやうに部屋《へや》に入《はい》つて、廊下《らうか》を背後向《うしろむ》きに、火鉢《ひばち》に掴《つかま》つて、ぶる/\と震《ふる》へたんです。……老爺《おぢい》さん。」
と雪枝《ゆきえ》は片手《かたて》で胸《むね》を抱《だ》いた。
「亭主《ていしゆ》が上《あが》つて来《き》ました。
『えゝ、一寸《ちよいと》お引合《ひきあ》はせ申《まを》しまする。此《この》男《をとこ》が其《そ》の、明日《みやうにち》双六谷《すごろくだに》の途中《とちゆう》まで御案内《ごあんない》しまするで。さあ、主《ぬし》、お知己《ちかづき》に成《な》つて置《お》けや。』と障子《しやうじ》の蔭《かげ》に蹲《しやが》んで居《ゐ》た山男《やまをとこ》に顔《かほ》を出《だ》させる、と此《これ》が、今《いま》しがたつひ其処《そこ》まで私《わたし》を送《おく》つてくれた若《わか》いもの、……此方《こつち》は其処《そこ》どころぢや無《な》い。」
十六
「恁《か》う成《な》ると、最《も》う外聞《ぐわいぶん》なんぞ構《かま》つては居《ゐ》られない。魅《つま》まれたか誑《たぶらか》されたか、山路《やまみち》を夢中《むちゆう》で歩
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