《てあし》も痺《しび》れる、腰《こし》も立《た》たん。
が、助《たす》け出《だ》す筈《はづ》だつた女房《にようばう》を負《おぶ》つてなら……麓《ふもと》の温泉《をんせん》までは愚《おろか》な事《こと》、百里《ひやくり》、二百里《にひやくり》、故郷《こきやう》までも、東京《とうきやう》までも、貴様《きさま》の手《て》から救《すく》ふためには、飛《と》んでも帰《かへ》るつもりで居《ゐ》た。彫像《てうざう》一個《ひとつ》抱《だ》いて歩行《ある》くに持重《もちおも》りがして成《な》るものか! ……
何故《なぜ》、様《ざま》を見《み》ろ、可気味《いゝきみ》だ、と高笑《たかわら》ひをして嘲弄《てうろう》しない。俺《おれ》が手《て》で棄《す》てたは棄《す》てたが、船《ふね》へ彫像《てうざう》を投《な》げたのは、貴様《きさま》が蹴込《けこ》んだも同然《どうぜん》だい。」と握《にぎ》つた拳《こぶし》をぶる/\震《ふる》はす、唇《くちびる》は白《しろ》く戦《おのゝ》く。
老爺《ぢゞい》は遣瀬無《やるせな》い瞬《またゝき》して、
「芸《げい》もねえ、譫《あだ》けた事《こと》を言《い》はつしやるな。成程《なるほど》、船《ふね》を焼《や》いたは悪《わる》いけんど、蹴込《けこ》んだとは、何《なん》たる事《こと》だの。」
「おゝ、船《ふね》を焼《や》いたは貴様《きさま》だな。それ見《み》ろ、それ見《み》ろ。汝《うぬ》、魔物《まもの》。山猫《やまねこ》か、狒々《ひゝ》か、狐《きつね》か、何《なん》だ! 悪魔《あくま》、女房《にようばう》を奪《うば》つた奴《やつ》。せめて、俺《おれ》に、正体《しやうたい》を見《み》せてくれ。一生《いつしやう》の思出《おもひで》だ。さあ、のつぺらぱうか、目一《めひと》つか、汝《おのれ》其《そ》の真目《まじ》/\とした与一平面《よいちべいづら》は。眉《まゆ》なんぞ真白《まつしろ》に生《はや》しやがつて、分別《ふんべつ》らしく天窓《あたま》の禿《は》げたは何事《なにごと》だ。其《そ》の顱巻《はちまき》を取《と》れ、恍気《とぼけ》るな。」と目《め》が逆立《さかだ》つて、又《また》じり※[#二の字点、1−2−22]と詰寄《つめよ》る。
老爺《ぢゞい》は己《おの》が面《つら》を、ぺろりと一《ひと》つ撫下《なでさ》げた。
六
いや、様子《やうす》が如何《いか》にも、我《わ》が顔《かほ》ながら不気味《ぶきみ》さうに見《み》えた。――眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、
「ま、ま、少《わけ》え旦那《だんな》、落着《おちつ》かつせえ、気《き》を静《しづ》めさつせえまし。……魔物《まもの》だ、鬼《おに》だ喚《わめ》いて、血相《けつさう》を変《か》へてござる……何《ど》うも見《み》た処《ところ》、――未《ま》だ此《こ》の上《うへ》に逆上《のぼせあが》らつしやるなよ――何《ど》うやら取逆《とりのぼ》せて居《ゐ》さつしやるが、はて、」
と上下《うへした》、天守《てんしゆ》を七分《しちぶ》、青年《わかもの》を三分《さんぶ》に見較《みくら》べ、
「もの、此処《こゝ》さ城趾《しろあと》の、お天守《てんしゆ》へ上《あが》らつしやりは為《し》ねえかの。」
「為《し》ねえかぢや無《な》からう。昨夜《ゆふべ》貴様《きさま》に何処《どこ》で逢《あ》つた?」
「先《ま》づ、むゝ、其《それ》で分《わか》つた。」
「分《わか》つたか。いや昨夜《さくや》は失礼《しつれい》したよ、魔物《まもの》の隊長《たいちやう》。」
「はて、迷惑《めいわく》な、私《わし》う魔物《まもの》だと思《おも》はつしやる。」
「魔物《まもの》で無《な》くて、魔物《まもの》で無《な》くて、汝《おのれ》、五位鷺《ごゐさぎ》が漕出《こぎだ》して、濠《ほり》の中《なか》で自然《しぜん》に焼《や》ける……不思議《ふしぎ》な船《ふね》の持主《もちぬし》が有《あ》るものか。」
「成程《なるほど》、何《なに》も仔細《しさい》を知《し》らつしやらぬお前様《めえさま》は、様子《やうす》を見《み》ても、此処等《こゝら》の人《ひと》ではござらつしやらぬ。」
「那様《そん》な事《こと》を言《い》つて何《ど》うする、貴様《きさま》は奪《うば》つて行《い》つた俺《おれ》の女房《にようばう》の、町処《ちやうところ》まで知《し》つてるでは無《な》いか。」
「急《せ》かつしやるな。此《こ》の山裾《やますそ》の、双六温泉《すごろくをんせん》へ、湯治《たうぢ》に来《き》さつせえた人《ひと》だんべいの。」
「知《し》れた事《こと》を、貴様《きさま》がお浦《うら》を掴出《つかみだ》した、……あの旅籠屋《はたごや》に逗留《とうりう》して居《ゐ》る。」
「そんなら、はい、無理《むり》はねえだ。」
と莞爾《につこり》して、草鞋《
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