ぼそ》い身《み》の上《うへ》ぢやが、何《なん》と為《し》ても思切《おもひき》れぬ……
 いけ年《どし》を為《し》た爺《ぢゞい》が、女色《いろ》に迷《まよ》ふと思《おも》はつしやるな。持《も》たぬ孫《まご》の可愛《かあい》さも、見《み》ぬ極楽《ごくらく》の恋《こひ》しいも、これ、同《おな》じ事《こと》と考《かんが》えたゞね。……
 さて困《こま》つたは、寒《さむ》ければ、へい、寒《さむ》し、暑《あつ》ければ暑《あつ》い身躰《からだ》ぢや、飯《めし》も食《く》へば、酒《さけ》も飲《の》むで、昼間《ひるま》寐《ね》て夜《よる》出懸《でか》けて、沼《ぬま》の姫様《ひいさま》見《み》るは可《え》えが、そればかりでは活《い》きて居《ゐ》られぬ。」


       雲《くも》の声《こゑ》


         二十二

 譬《たと》へば幻《まぼろし》の女《をんな》の姿《すがた》に憧《あこ》がるゝのは、老《おひ》の身《み》に取《と》り、極楽《ごくらく》を望《のぞ》むと同《おな》じと為《す》る。けれども其《そ》の姿《すがた》を見《み》やうには、……沼《ぬま》へ出掛《でか》けて、四《よ》つ手場《でば》に蹲《つくば》つて、或《ある》刻限《こくげん》まで待《ま》たねばならぬ。で、屋根《やね》から月《つき》が射《さ》すやうな訳《わけ》には行《ゆ》かない。其処《そこ》で、稼《かせ》ぎも為《せ》ず活計《くらし》も立《た》てず、夜毎《よごと》に沼《ぬま》の番《ばん》の難行《なんぎやう》は、極楽《ごくらく》へ参《まゐ》りたさに、身投《みな》げを為《す》るも同《おな》じ事《こと》、と老爺《ぢゞい》は苦笑《にがわら》ひをしながら言《い》つた。
 そんなら、四《よ》つ手場《でば》を留《や》めにして、小家《こや》で草鞋《わらぢ》でも造《つく》れば可《いゝ》が、因果《いんぐわ》と然《さ》うは断念《あきら》められず、日《ひ》が暮《く》れると、そゝ髪立《がみた》つまで、早《は》や魂《たましひ》は引窓《ひきまど》から出《で》て、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》を差《さ》してふわ/\と白《しろ》い蝙蝠《かはほり》のやうに※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]《さまよ》ひ行《ゆ》く。
 待《ま》てよ、恁《か》うまで、心《こゝろ》を曳《ひ》かるゝのは、よも尋常《たゞ》ごとでは有《あ》るまい。伝《つた》へ聞《き》く沼《ぬま》の中《なか》へは古城《こじやう》の天守《てんしゆ》が倒《さかさま》に宿《やど》る……我《わ》が祖先《そせん》の術《じゆつ》の為《ため》に、怪《あや》しき最後《さいご》を遂《と》げた婦《をんな》が、子孫《しそん》に絡《まつは》る因縁事《いんねんごと》か。其《それ》とも弔《とむ》らはれず浮《う》かばぬ霊《れい》が、無言《むごん》の中《うち》に供養《くやう》を望《のぞ》むのであらうも知《し》れぬ。独《ひと》りでは何《なに》しろ荷《に》が重《おも》い。村《むら》の誰《たれ》にかも見《み》せて、怪《あや》しさを唯《たゞ》※[#「さんずい+散」、122−3]《しぶき》の如《ごと》く散《ち》らさう、と人《ひと》に告《つ》げぬのでは無《な》いけれども、昼間《ひるま》さへ、分《わ》けて夜《よる》に成《な》つて、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の三町四方《さんちやうしはう》へ寄附《よりつ》かうと言《い》ふ兄哥《せなあ》は居《を》らぬ。
 殆《ほと》んど我身《わがみ》を持《も》て余《あま》した頃《ころ》の、其《そ》の夜《よ》……
「お前様《めえさま》が逢《あ》はしつた坊主《ばうず》が来《き》て、のつそり立《た》つた。や、これも怪《あや》しい。顔色《かほいろ》の蒼《あを》ざめた墨《すみ》の法衣《ころも》の、がんばり入道《にふだう》、影《かげ》の薄《うす》さも不気味《ぶきみ》な和尚《をしやう》、鯰《なまづ》でも化《ば》けたか、と思《おも》ふたが、――恁《か》く/\の次第《しだい》ぢや、御出家《ごしゆつけ》、……大方《おほかた》は亡霊《ばうれい》が廻向《えかう》を頼《たの》むであらうと思《おも》ふで、功徳《くどく》の為《た》め、丑満《うしみつ》まで此処《こゝ》にござつて引導《いんだう》を頼《たの》むでがす。――旅《たび》の疲労《つかれ》も有《あ》らつしやらうか、何《なん》なら、今夜《こんや》は私《わし》が小家《こや》へ休《やす》んで、明日《あす》の晩《ばん》にも、と言《い》ふたが、其《それ》には及《およ》ばぬ……若《も》しや、其《それ》が真実《しんじつ》なら、片時《へんし》も早《はや》く苦艱《くかん》を救《すく》ふて進《しん》ぜたい。南無南無《なむなむ》と口《くち》の裡《うち》で唱《とな》うるで、饗応振《もてなしぶり》に、藁《わら》など敷《し》いて
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