、蔽被《おつかぶ》さるやうに覗《のぞ》いて、
『待《ま》て、待《ま》て、死骸《しがい》を見《み》たでは無《な》い。ぢやが、正《しやう》のものでもなかつた……謂《い》はゞ影《かげ》ぢやな。声《こゑ》の有《あ》る色《いろ》の有《あ》る影法師《かげぼふし》ぢや……其《そ》のものから、御身《おみ》に逢《あ》ふて話《はな》してくれい、と私《わし》が托言《ことづけ》をされたよ。……
何《なに》かな、御身《おみ》は遠方《ゑんぱう》から、近頃《ちかごろ》此《こ》の双六《すごろく》の温泉《をんせん》へ、夫婦《ふうふ》づれで湯治《たうぢ》に来《き》て、不図《ふと》山道《やまみち》で其《そ》の内儀《ないぎ》の行衛《ゆくゑ》を失《うしな》ひ、半狂乱《はんきやうらん》に捜《さが》してござる御仁《ごじん》かな。』とつけ/\訊《たづ》ねる。
女房《にようばう》が失《う》せて半狂乱《はんきやうらん》、」
と雪枝《ゆきえ》は、思出《おもひだ》すのも、口惜《くや》しさうに歯噛《はが》みをした。
「察《さつ》して下《くだ》さい、……唯《たゞ》其《そ》の音信《たより》の聞《き》きたさに、
『えゝ、其《その》ものです』と返事《へんじ》を為《し》ました。
『やれ/\、気《き》の毒《どく》。』
とさら/\と法衣《ころも》の袖《そで》を掻合《かきあ》はせる音《おと》がして、
『私《わし》は旅《たび》のものぢやが、此《こ》の沼《ぬま》は、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》と言《い》ふげぢやよ。』
老爺《おぢい》さん、其処《そこ》は城《じやう》ヶ|沼《ぬま》と言《い》ふ処《ところ》だつた。」
雪枝《ゆきえ》は息《いき》せはしく成《な》つて一息《ひといき》吐《つ》く。ト老爺《ぢい》は煙草《たばこ》を払《はた》いた。吸殻《すゐがら》の落《おち》た小草《をぐさ》の根《ね》の露《つゆ》が、油《あぶら》のやうにじり/\と鳴《な》つて、煙《けむり》が立《た》つと、ほか/\薄日《うすび》に包《つゝ》まれた。雲《くも》は稍《やゝ》薄《うす》く成《な》つたが、天守《てんしゆ》の棟《むね》は、聳《そび》え立《た》つ峯《みね》よりも空《そら》に重《おも》い。
「えゝ、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の。はあ、夢中《むちゆう》で其処《そこ》ら駆廻《かけめぐ》らしつたものと見《み》える……それは山《やま》の上《うへ》では無《な》い。お前様《めえさま》が温泉《をんせん》へ来《き》さつしやつた街道端《かいだうばた》の、田畝《たんぼ》に近《ちか》い樹林《きはやし》の中《なか》にある大《おほき》い沼《ぬま》よ。――何《なに》が、其《そ》の水《みづ》は谿河《たにがは》の流《ながれ》を堰《せ》いて溜《た》めたでは無《な》うて、昔《むかし》から此《こ》の……此処《こゝ》な濠《ほり》の水《みづ》が地《ち》の底《そこ》を通《かよ》ふと言《い》ふだね。……
お天守《てんしゆ》の下《した》へも穴《あな》が徹《とほ》つて、お城《しろ》の抜道《ぬけみち》ぢや言《い》ふ不思議《ふしぎ》な沼《ぬま》での、……私《わし》が祖父殿《おんぢいどん》が手細工《てざいく》の船《ふね》で、殿様《とのさま》の妾《めかけ》を焼《や》いたと言《い》つけ。其《そ》ん時《とき》はい、其《そ》の影《かげ》が、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》へ歴然《あり/\》と映《うつ》つて、空《そら》が真黒《まつくろ》に成《な》つたと言《い》ふだ。……其《それ》さ真個《ほんとう》か何《ど》うか分《わか》らねども、お天守《てんしゆ》の棟《むね》は、今以《いまも》つて明《あきら》かに映《うつ》るだね。水《みづ》の静《しづか》な時《とき》は大《おほき》い角《つの》の龍《りう》が底《そこ》に沈《しづ》んだやうで、風《かぜ》がさら/\と吹《ふ》く時《とき》は、胴中《どうなか》に成《な》つて水《みづ》の面《おもて》を鱗《うろこ》が走《はし》るで、お城《しろ》の様子《やうす》が覗《のぞ》けるだから、以前《いぜん》は沼《ぬま》の周囲《まはり》に御番所《ごばんしよ》が有《あ》つた。最《もつと》もはあ、殺生《せつしやう》禁制《きんせい》の場所《ばしよ》でがしたよ。
其《そ》の上《うへ》、主《ぬし》が居《ゐ》て住《す》む、と云《い》ふて、今以《いまもつ》て誰一人《たれひとり》釣《つり》をするものはねえで、鯉《こひ》鮒《ふな》の多《いか》い事《こと》。……
お前様《めえさま》が温泉《ゆ》の宿《やど》で見《み》さしつけな、囲炉裡《ゐろり》の自在留《じざいどめ》のやうな奴《やつ》さ、山蟻《やまあり》が這《は》ふやうに、ぞろ/\歩行《ある》く。
あの、沼《ぬま》へ、待《ま》たつせえ、」
と又《また》眉《まゆ》をびく/\遣《や》つた。
「四手場《よつでば》を拵《こさ》えて網《あみ》を張《は》るものは近郷近在
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