客様《きやくさま》、』
『奥様《おくさま》』と呼《よ》ぶのが峯《みね》から伝《つた》はる。谺《こだま》を返《かへ》して谷《たに》へカーンと響《ひゞ》く、――雲《くも》が白《しろ》く、山《やま》が青《あを》く、風《かぜ》が吹《ふ》いて水《みづ》が流《なが》れる。
『客人《きやくじん》は気《き》が違《ちが》つた、』と言《い》ふのが分《わか》る。
「可《よし》、何《なん》とでも言へ、昨日《きのふ》今日《けふ》二世《にせ》かけて契《ちぎり》を結《むす》んだ恋女房《こひにようばう》がフト掻消《かきけ》すやうに行衛《ゆくゑ》が知《し》れない。其《それ》を捜《さが》すのが狂人《きちがひ》なら、飯《めし》を食《く》ふものは皆《みな》狂気《きちがひ》、火《ひ》が熱《あつ》いと言《い》ふのも変《へん》で、水《みづ》が冷《つめた》いと思《おも》ふも可笑《をか》しい。温泉《をんせん》の湧出《わきだ》すなどは、沙汰《さた》の限《かぎ》りの狂気山《きちがひやま》だ、はゝゝはゝ、」
と雪枝《ゆきえ》は額髪《ひたひがみ》を揺《ゆす》るまで、膝《ひざ》を抱《かゝ》へて、高笑《たかわらひ》を遣《や》つた。
 雲《くも》が動《うご》いて、薄日《うすび》が射《さ》して、反《そ》らした胸《むね》と、仰《あふ》いだ其《そ》の額《ひたひ》を微《かす》かに照《て》らすと、ほつと酔《よ》つたやうな色《いろ》をしたが、唇《くちびる》は白《しろ》く、目《め》は血走《ちばし》るのである。
 老爺《ぢゞい》は小首《こくび》を傾《かたむ》けた。
 急《きふ》に又《また》雪枝《ゆきえ》は、宛然《さながら》稚子《おさなご》の為《す》るやうに、両掌《りやうて》を双《さう》の目《め》に確《しか》と当《あ》てゝ、がつくり俯向《うつむ》く、背中《せなか》に雲《くも》の影《かげ》が暗《くら》く映《さ》した。
「其《そ》の中《うち》に四辺《あたり》が真暗《まつくら》に成《な》つた。暗《くら》く成《な》つたのは夜《よる》だらう、夜《よる》の暗《くら》さの広《ひろ》いのは、田《た》か畠《はたけ》か平地《ひらち》らしい、原《はら》かも知《し》れない……一目《ひとめ》其《そ》の際限《さいげん》の無《な》い夜《よる》の中《なか》に、墨《すみ》が染《にじ》んだやうに見《み》えたのは水《みづ》らしかつた……が、水《みづ》でも構《かま》はん、女房《にようばう》の行衛《ゆくゑ》を捜《さが》すのに、火《ひ》の中《なか》だつて厭《いと》ひは為《し》ない。づか/\踏込《ふみこ》まうとすると、
『あゝ、深《ふか》いぞ、誰《たれ》ぢや、水《みづ》へ……』
と其時《そのとき》、暗《くら》がりから、しやがれた声《こゑ》を掛《か》けて、私《わたし》を呼留《よびと》めたものがあります。
 暗《やみ》に透《す》かすと、背《せ》の高《たか》い大《おほき》な坊主《ばうず》が居《ゐ》て、地《ち》から三尺《さんじやく》ばかり高《たか》い処《ところ》、宙《ちう》で胡座《あぐら》掻《か》いたも道理《だうり》、汀《みぎは》へ足代《あじろ》を組《く》んで板《いた》を渡《わた》した上《うへ》に構込《かまへこ》んで、有《あ》らう事《こと》か、出家《しゆつけ》の癖《くせ》に、……水《みづ》の中《なか》へは広《ひろ》い四手網《よつであみ》が沈《しづ》めてある。」
 老爺《ぢゞい》は眉毛《まゆげ》をひくつかせた。
「はての。」


       城《じやう》ヶ|沼《ぬま》


         十九

「其《そ》の入道《にふだう》の、のそ/\と身動《みうご》きするのが、暗夜《やみ》の中《なか》に、雲《くも》の裾《すそ》が低《ひく》く舞下《まひさが》つて、水《みづ》にびつしより浸染《にじ》んだやうに、ぼうと水気《すゐき》が立《た》つので、朦朧《もうろう》として見《み》えた。
『沼《ぬま》ぢや、気《き》を着《つ》けやれ』と打切《ぶつき》つたやうに言《い》ひます。
『沼《ぬま》でも海《うみ》でも、女房《にようばう》が居《ゐ》れば入《はい》らずに置《お》けない。』
 苛々《いら/\》するから、此方《こつち》はふてくされで突掛《つゝかゝ》る。
 と入道《にふだう》が耳《みゝ》を貫《つらぬ》いて、骨髄《こつずゐ》に徹《とほ》る事《こと》を、一言《ひとこと》。
『はゝあ、此処《こゝ》なは、御身《おみ》が内儀《ないぎ》か、』
と言《い》ふ。
『此処《こゝ》なは……私《わたし》の……女房《にようばう》だと? ……』
『おゝ、私《わし》が今《いま》出逢《であ》ふた、水底《みなぞこ》から仰向《あふむ》けに顔《かほ》を出《だ》いた婦人《をんな》の事《こと》ぢや。』
『や、溺《おぼ》れて死《し》んだか。』
とばつたり膝《ひざ》を支《つ》く、と入道《にふだう》は足代《あじろ》の上《うへ》から
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