ている。
そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。
下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……
ちっと擽《くすぐ》ったいばかり。こういう時の男の起居挙動《たちいふるまい》は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視《み》ていた。薙刀の、それからはじめて。――
一度横目を流したが、その時は、投げた単衣《ひとえ》の後褄《うしろづま》を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出《けだ》しの色の片膝を立て、それによりかかるように脛《はぎ》をあらわに、おくれ毛を撫《な》でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。
「その絵馬なんですわ、小県さん。」
起《た》つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢《けはい》は通ずる。安達ヶ原の……
「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎《まないた》の上へ――裸体《はだか》の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄《すご》い鬼婆々《おにばばあ》じゃなくって、鮹《たこ》の口を尖《とが》らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事《ねがいごと》でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」
事情《ことがら》も解《よ》めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視《なが》めていたのは、その次の絵馬で。
はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛《ひとはけ》なすりつけた、波の線が太いから、海を被《かつ》いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈《かれい》、比目魚《ひらめ》には、どんよりと色が赤い。赤※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《あかえい》だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎《まちじょろう》の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。
斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]《はんみょう》だ。斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]が留っていた。
「お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗《きれい》な虫が一つ居はしませんか、虫が。」
「ええ。」
「居る?」
「ええ。居ますわ。」
バタリと口に啣《くわ》えた櫛《くし》が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛《ひっか》けを手繰っていたが、
「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪《かんざし》も衣《き》ものも欲《ほし》いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」
筐《かたみ》の簪、箪笥《たんす》の衣《きぬ》、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。
いや、懸念に堪えない。
「玉虫どころか……」
名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。
「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」
「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢《びん》の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体《からだ》を、構わんですわ。」
ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念《あきらめ》がよく聞えた。いやが上に、それも可哀《あわれ》で、その、いじらしさ。
「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」
再び巨榎《おおえのき》の翠《みどり》の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視《み》た。
水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。
「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可《よ》かった。」
引立てて階《きざはし》を下りた、その蔀格子《しとみごうし》の暗い処に、カタリと音がした。
「あれ、薙刀がはずれましたか。」
清水の面《おもて》が、柄杓《ひしゃく》の苔《こけ》を、琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》のごとく、梢《こずえ》もる透間《すきま》を、銀象嵌《ぎんぞうがん》に鏤《ちりば》めつつ、そのもの音の響きに揺れた。
「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……
榎の梢を、兎のような雲にのって。
「桃色の三日月様のように。」
と言った。
松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎《かげろう》を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも
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