、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭《と》き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅《とき》の羅《うすもの》して、あま翔《かけ》る鳥の翼を見よ。
「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」
「行って、どうします? 行って。」
「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗《ひきだし》にしまって封をすれば、仏様の情《なさけ》を仇《あだ》の女の邪念で、蛇、蛭《ひる》に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛《くも》になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭《さと》しなんです。小県さん。あの沼は、真中《まんなか》が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」
 と、銑吉の袂《たもと》の端を確《しか》と取った。
「行《ゆ》く道が分っていますか。」
「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」――
 欄干の折れた西の縁の出端《はずれ》から、袖形に地の靡《なび》く、向うの末の、雑樹《ぞうき》茂り、葎蔽《むぐらおお》い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予《ため》らわず潜《くぐ》る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝《うね》って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退《さが》ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹《しまぎぬ》に黒髪した遁水《にげみず》のごとき姿を追ったからである。
 沼は、不忍《しのばず》の池を、その半《なかば》にしたと思えば可《い》い。ただ周囲に蓊鬱《おううつ》として、樹が茂って暗い。
 森をくぐって、青い姿見が蘆間《あしま》に映った時である。
 汀《なぎさ》の、斜向《はすむこ》うへ――巨《おおき》な赤い蛇が顕《あら》われた。蘆|萱《かや》を引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤《まっか》なヘルメット帽である。
 小県が追縋《おいすが》る隙《すき》もなかった。
 衝《つ》と行《ゆ》く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙《しろたえ》なる、乳首の深秘は、幽《かすか》に雪間の菫《すみれ》を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
「畜生……」
 と云った、女の声とともに、谺《こだま》が冴えて、銃が響いた。
 小県は草に、伏《ふせ》の構《かまえ》を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行《や》るかも知れない……爪さきに接吻《キス》をしようとしたのではない。ものいう間《ま》もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
 その草伏《くさぶし》の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽《ぬ》いて、高く、金色《こんじき》の夕日に聳《そばだ》って見えた。斉《ひと》しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖《とが》った、巨《おおい》なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投《なげ》るのを視た。足でなく、頭で雀躍《こおどり》したのである。たちまち、法衣《ころも》を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢《いきおい》よく沼へ入った。
 続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
 中心へ近づくままに、掻《か》く手の肱《ひじ》の上へ顕《あら》われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸《きのこ》のくさりかかったような面《おもて》を視た。水に拙《つたな》いのであろう。喘《あえ》ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形《おんぎょう》の一術《ひとて》であろうも計られぬ。
「ばか。」
 投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
 早く解いて流した紅《くれない》の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼《は》を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来《きた》り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行《ゆ》く。その、花片《はなびら》に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
 鼻を仰向け、諸手《もろて》で、腹帯を掴《つか》むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜《ひるがえ》った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
 ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八|爺《じい》が押えたのが見える。押えられて、手を突込《つっこ》んだから、
前へ 次へ
全17ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング